「天草島原の乱」の乱前乱後の政策の違いを見て来た富岡城

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漆喰の白い壁と緑の木々。

背後には青く広がる海。

遠くに見える島原半島(長崎県)を覆う雲仙の山々。

その配色は自然と人工物が紡ぎ出す調和したコントラストと言えます。

富岡城(とみおかじょう:熊本県天草郡苓北町)からの美しい眺望です。↑富岡城

今は平穏な雰囲気によって包み込まれている富岡城ですがかつてはここで激戦が繰り広げられました。

天草島原の乱(1637〜1638年)です。

藩による過酷な重税とキリシタン迫害に耐えかねていた島原半島の領民は当時16歳の少年天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を一揆軍の総大将として決起しました。

これに呼応して天草でも領民が蜂起します。その時の激戦地の1つが唐津藩の富岡城でした(※唐津藩は現在の佐賀県に位置しますが、富岡城のある天草地方も飛地として唐津藩が治めていました)。↑富岡城

富岡城の城代・三宅重利(みやけしげとし:通称は三宅籐兵衛(みやけとうべえ))は1,500人の唐津藩の藩兵を従え本渡(現天草市本渡町周辺)で一揆軍と戦いましたが敗退し自刃します。

勢いに乗った一揆軍は富岡城を攻撃しますが討死した三宅藤兵衛の代わりとなって指揮を執った原田嘉種(はらだよしたね)はこれに耐え城を守り抜きます。

結局、一揆軍は富岡城の攻撃を諦めて海を渡り島原半島へと戦地を移しました。↑富岡城

ところで一揆軍は3回に渡り富岡城へ猛攻を加えたそうですが陥落しませんでした

なぜ一揆軍は富岡城を陥とせなかったのでしょうか?

その大きな理由の1つは地形にあったと言えます。

水の流れや風によって運ばれた土砂で形成される堆積構造が嘴 (くちばし) 形の地形をしているものを砂嘴(さし)と言います。

富岡城の東部にはこの砂嘴が土塁の役割を担い、海からの外敵を防御する役割を果たしています。↑富岡城から見る砂嘴

砂嘴が更に伸びたものを砂州(さす)と呼びます。この砂州の形成によって主陸地と陸続きと化した島を陸繋島(りくけいとう)と呼びます。↑富岡城から見る砂州

富岡城は海に囲まれた陸繋島の丘の上に築かれた城の為、陸からの攻撃は砂州を渡るしか方法がありません。

つまり、富岡城は極めて攻撃困難な天然の要害に囲まれた城なのです。↑富岡城

以上が地形的な面から見た富岡城が陥落しなかった理由ですが、ここに非科学的な理由を加えると少し興味深いものが見えて来ます。

富岡城を築いたのは唐津藩初代藩主の寺沢広高(てらざわひろたか)ですが、広高は一度キリシタンに改宗していますがその後、棄教しています。

また、本渡で一揆軍と戦った三宅重利もキリシタンでしたが棄教しています。

もう少し踏み込んで見ると広高が富岡城を築く前に天草を治めていた小西行長(こにしゆきなが)はキリシタン大名でしたが関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた為、所領を没収され代わって広高が入領しました。

最後にもう1つ。

行長の所領となる前は志岐鎮経(しきしげつね)によって統治されていたのですが、鎮経もまたキリシタン大名でした

鎮経は南蛮貿易で利益を得る為キリスト教の布教を認めましたが南蛮船の来航はなく、これに激怒し一転してキリスト教徒を迫害したそうです。

如何でしょうか?

富岡城はキリシタンとは相性が良くなかったようですね(^^;

富岡城は元々持っていた地理的優位性に加えてキリシタンを拒絶すると言う目に見えない要素が加えられたことにより難攻不落の城となったのかもしれません。↑富岡城

さて、天草島原の乱が終結した後の富岡城はどうなったのでしょうか?

1638年、乱後の荒れ果てた天草へ山崎家治(やまざきいえはる)が入領し、唐津藩が廃藩となり富岡藩が成立します。

家治は富岡城の再建にかかると同時に各地へ離散した領民を呼び戻し、新田開発をするなど復興に着手しました。

1641 年に城の改修が終了すると家治に変わって鈴木重成(すずきしげなり)が入領しました。この時、富岡藩はわずか3年と言う短い期間で閉じられ天領となります。↑富岡城

重成は初代代官として1653年まで務めたのですがその間、踏絵を執行するなどキリシタン統制を行う一方で僧侶となった兄の鈴木正三(すずきしょうさん)を呼び寄せ仏教への改宗を勧めました。

また、天草の石高は実際の倍であるとして半減する事を幕府に何度も訴えましたが聞き入れられず抗議の意味で江戸の自邸で切腹したとされています。↑鈴木重成(左)と鈴木正三(右)の像

2代目代官となった重成の養子の鈴木重辰(すずきしげとき)は養父の意志をついで天草復興に力を入れ、1659年に養父のなし得なかった石高の半減を果たしました

そしてその締めくくりをしたのが戸田忠昌(とだただまさ)です。

1664年、重辰の後に富岡藩は再度立藩され、そこへ入領した忠昌は本丸・二の丸を破却し廃城としました。

これを「戸田の破城」と呼びます。

廃城にした理由は忠昌が城の維持管理が領民へ負担を強いていることに疑問を持ったからと言われています。↑富岡城

その後、忠昌は「天草は永久に天領であるべき地」として藩を廃止し天領へ戻します。以降、明治維新まで立藩されることはありませんでした。

乱の勃発前の過酷な重税とキリシタン迫害に対し乱終結以後は正反対な政策を執って来たと言えます。

やはり物事に対しては寛容的に対応した方が平和は維持されると言う事ですね。

富岡城には現在ビジターセンターが設けられこの地方の情報を得る事が出来ます。

↑富岡ビジターセンター

天草地方に足を運ぶ機会に恵まれた方は、風光明媚な景観を持つ是非富岡城にも寄って頂き平和の大切さを感じで下さい!

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