時代の大きなうねりは複雑な層を織りなす。
天下分け目の戦い「関ヶ原の合戦(1600年)」で西軍についたキリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)は天草(熊本県)の領地から追われた。
キリシタンが多く住むこの地に代わって入った寺沢氏、続く松倉氏は住民に重い年貢を課し、苦しめた。
そのような状況にとどめを刺すかのように1612年に布かれたのが禁教令である。
天草を追放される事となったママコフ(ママコスとも)神父は予言を残した。
「今から25年後、16歳の天童が現れ人々を救うであろう」
25年後の1637年、その予言が現実となる。
圧政、重税、キリシタン弾圧に耐えかねた農民が決起した。
「天草・島原の乱」の勃発である。
この時、一揆軍の総大将として先頭に立ったのが16歳の少年だった。
容姿端麗、ひだ襟に黒いマントを纏った姿は神秘性、カリスマ性を際立たせた。
救世主的存在と見なされたこの少年は天草四郎(あまくさしろう)である。
↑天草四郎の銅像(天草キリシタン館)
一揆軍は島原半島、天草地方で善戦した。最終的に島原領主の有馬家の居城で廃城となっていた原城址に集結した。↑天草・島原乱の模型(天草キリシタン館)
勢いに乗った四郎率いる一揆軍は37,000人にまで膨れ上がった。
これに対し、幕府は12万人以上もの大軍を送り込み原城を包囲。3ヶ月の兵糧攻の後、総攻撃を仕掛けて一揆軍を全滅させた。
この時、四郎も討ち取られ晒し首にされたと伝えられている。
一揆軍は全滅させられた。が、強かった。
なぜだろう?
前述のママコフ神父の予言に
「その幼き子は、習わざるに諸事をきわめやがては野山に白旗をたて諸人の頭に十字架(クルス)をたてるだろう」
と言う一節も残している。
この白旗が一揆軍の強かった理由の一つかもしれない。
現在、天草市内の一揆軍と幕府軍の激戦が繰り広げられた丘の上に「天草キリシタン館」が佇む。
↑天草キリシタン館↑天草キリシタン館からの眺め
この天草キリシタン館に一旒(りゅう)の旗が保管されている。
「天草四郎の陣中旗」である。
この旗は従来の日本の旗とは異なり西洋画が描かれた西洋旗だ。
旗の上部には、中世ポルトガル語で「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」と記されている。↑天草四郎の陣中旗(出典:ウィキペディア)
この旗がママコフ神父の予言した白旗の事だと言える確証は無い。しかし、この旗が四郎の存在と融合する事によって一揆軍の士気を高め軍の強さを増長させた事は間違いないであろう。
天草四郎の陣中旗は「ジャンヌダルクの旗」「十字軍の旗」と共に世界の三大聖旗の一つと言われているそうだ。
キリスト教国家では無い日本の地に三大聖旗の一つが有る事はそれだけ四郎率いる一揆軍が歴史的に見ても重要な一場面を演じたと言えるのではないだろうか。
天草キリシタン館では陣中旗を大切に保管しているため特別な時以外はレプリカが展示されている。しかし、それでも緻密に復元されているから一件の価値がある。
天草地方に訪れた際は是非立ち寄って頂きたい。
ところで天草四郎の本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)である。これとは別に洗礼名を持つ。初めは「ジェロニモ(Geronimo)」だったが、天草・島原の乱の時は「フランシスコ(Francisco)」に変わっている。
多くの異名を持つ四郎だがもう一つある。
豊臣秀綱と言う名である。
薩摩(現鹿児島県)の書物に天草四郎の事が「豊臣秀綱」という名前で記されているそうだ。
どう言うことなのだろう?
実は四郎には豊臣秀吉の孫、つまり秀吉の嫡男・豊臣秀頼(とよとみひでより)の子供だったと言う伝説が残されている。
なぜこんな伝説が生まれたのだろうか?↑天草四郎の看板(天草キリシタン館)
史実では豊臣家と徳川家の最終決戦とも言える大坂の陣(1615年)で豊臣方の負けが決まると秀頼は母の淀殿とともに自害したとされている。
しかし、秀頼や淀殿の最期を見届けた者はおらず、死体も残っていなかったそうだ。
この事が秀頼は自害せず、島津氏を頼って薩摩国に逃げたのではないかという説を生んだようだ。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」と言うわらべ唄が大坂夏の陣の後に京の町などで唄われたそうだ。
真田は大坂の陣で陣頭指揮を取った真田幸村の事であろう。幸村が秀頼を連れて鹿児島へ逃げたと読み取れる。
大阪城の南に位置する宰相山公園(さいしょうやまこうえん)にある三光神社(さんこうじんじゃ)には「真田の抜け穴」と呼ばれる穴が存在する。
幸村はこの抜け穴を使って秀頼と共に大阪城から脱出したのではないかと言う話が残されている。
秀吉の血を引く四郎であったからこそ豊臣家を滅ぼした徳川家に対し強烈な敵対意識を持って臨んだ。だから一揆軍が強かったと想像も出来る。
今一度前述した天草四郎の陣中旗に視点を戻そう。
この旗以外にもう一つ一揆軍の指揮を高めたであろう旗がある。
千成瓢箪の馬印(せんなりびょうたんのうまじるし)である。馬印とは戦国時代の戦場において、武将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた旗の事を指す。
そして千成瓢箪の馬印と言えば豊臣秀吉だ。
四郎はこの千成瓢箪の馬印を使用していたと言うのだ。
これも四郎が秀頼の子供だったと言う伝説につながっている。
「天草四郎の陣中旗」と「千成瓢箪の馬印」
幕末に新政府軍が掲げた「錦の御旗」もそうだが歴史の大舞台に旗は必要不可欠である。
人は何か事をなす時に何らかの支えが必要である。
旗はそれを形にしたものと言えるだろう。
あなたも何か事をなす時には心の中に自分だけの旗を描いてみたらどうだろうか?
天草四郎のように伝説と真実が複雑な層を織りなし神秘性とカリスマ性が宿るかもしれない。
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