静岡県中西部の島田市、牧之原市、菊川市の3市にまたがって広がりを見せる牧之原台地(まきのはらだいち)。
その台地を覆う広大な茶畑は諏訪原城跡(すわはらじょうあと)の目前にまで迫っています。↑茶畑(手前)と奥に諏訪原城跡↑諏訪原城跡の碑
今は長閑(のどか)な風景に囲まれていますが、戦国時代にはここで激しい戦闘が行われたました。
諏訪原城跡は現在、国指定文化財に指定されると共に日本城郭協会の定める「続日本100名城」の一つに選ばれています。
それだけ重要なお城だと言えます。
ビジターセンターで当時の様子を知った上で城跡を見学すれば、目に入る遺構はより一層ダイナミックなものに見える事でしょう。↑諏訪原城ビジターセンター
牧之原台地の東側を流れる大井川はかつて武田領の駿河(するが)と徳川領の遠江(とうとうみ)との国境線でした。
武田信玄亡きあと領主となった息子の武田勝頼(たけだかつより)は1573年、遠江への侵攻の足がかりとして大井川の西岸の徳川領に城を築くよう家臣の馬場信春(ばばのぶはる)に命じました。
それが諏訪原城です。↑諏訪原城からの眺め(島田市市街地と大井川)↑諏訪原城跡_大手北外堀↑諏訪原城_外堀
牧之原にあるのになぜ諏訪原なのでしょうか?
それは城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされているからです。↑諏訪神社
ここを前線基地とした武田軍でしたが1575年、長篠の戦いで武田軍と戦闘を交えた織田・徳川連合軍が勝利を収めると、勢いを得た徳川家康に攻め込まれます。
1ヶ月余りの攻防戦の後、家康は勝利を収め、諏訪原城を奪取しました。
ところで、諏訪原城ではこの城の見どころの一つと言える巨大な丸馬出し(まるうまだし)を見る事が出来ます。↑諏訪原城跡_二の曲輪北馬出し
「虎口(こぐち)」とは中世以降の城郭における出入り口のことを指します。その虎口の前面に小さな空間を設け、周囲を掘りで囲い、左右に出入口のあるものを「馬出し(うまだし)」と呼びます。↑諏訪原城ビジターセンター展示の馬出しのジオラマ
馬出しの形には2種類あり、四角いものを「角馬出し」、半円形のものを「丸馬出し」と呼びます。
信玄の城造りの特徴の一つに丸馬出しがあります。
勝頼もそれを引き継いでいる為、丸馬出しは武田氏の城の特徴と言えるでしょう。
ところが、諏訪原城の丸馬出しは近年の調査により、徳川氏による改修によって備えられたらしいと言う事が分かって来たようです。
「真似る」とは、他のものに似せてする。模倣すると言った意味です。
真似は動詞の「まねぶ・まなぶ(学ぶ)」と同源と言われています。
「真に似せる」の意味から「まね」や「まねぶ」が生じた後「まなぶ」となった。あるいは「誠に習う」の意味から「まなぶ」が生じ、名詞形として「まね」、動詞形として「まねぶ」が生まれたと考えられています。
いずれにしても真似るには学ぶ・習うと言う意味が含まれている事になります。↑諏訪原城跡_薬医門
徳川家康は三方ヶ原の戦い(1573年)で武田軍に惨敗しました。しかし、それを機に武田信玄を真似るようになったと言われています。
例えば、そのきっかけとなった三方ヶ原の戦いで信玄が見せた、相手が動かざるを得ないように誘導して誘い出す戦略は、関ヶ原の戦いで西軍を誘い出した戦略と同じと言えます。
例え敵のする事であっても自分にとって有効な事であれば真似る。
真似た後に更にそれを進化させる事で自分の得意となる。
家康は真似る事の重要性を知っていたが故に諏訪原城に丸馬出しを備えたに違いありません。
ところで、信玄は「自分が人を使うのは、その人の業を使うのだ」と言う名言を残しています。
これも、人の良いところを真似ると解釈出来ます。
だからこそ徳川家康も武田信玄も、食うか食われるかの戦国時代に並み居る敵を倒し、勢力を延ばし続ける事が出来たのでしょう。
諏訪原城に訪れた際は、「真似る」をキーワードに徳川氏と武田氏のハイブリットの遺構を見学しみては如何でしょうか!