連なる二棟の巨大な建造物。
境内に一歩足を踏み入れると目に飛び込むその光景には誰もが圧倒されるでしょう!
↑専修寺
三重県津市一身田(いしんでん)にある専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗10派のうちの一つ高田派の本山です。
少々ややこしいのですが、一身田の専修寺は本山ですが、これとは別に栃木県真岡市高田には高田派の本寺専修寺があります。
浄土真宗の宗祖である親鸞は「高田の本寺を建立せよ」「師の願い満足す。速やかに善光寺に来るべし。我が躯を分かちて汝に与えるなり」と如来の夢告を受けます。
それに従い善光寺から本尊である一光三尊仏の写しをもらい受け下野国(現在の栃木県)高田に創建した寺院に安置しました。
これが本寺専修寺であり、真宗高田派の起源とされています。
ではなぜ、一身田に本山があるのでしょうか?
本寺専修寺第10世真慧(しんね)は文明年間(1469年〜1487年)に伊勢国(現在の三重県)の門徒の要請及び、新たな布教の拠点として一身田の地に無量寿院(むりょうじゅいん)を創建しました。
その後、下野国高田の本寺専修寺が1526年に兵火によって焼失。更に無量寿院住持の応真(おうしん)が高田派の第11世になった事から次第に教団の中枢が無量寿院に移り、本山専修寺と呼ばれるようになったと言うことです。
話は変わりますがビジネスや政治などの公の場、あるいは家族や友達などの間でも何か問題が生じた時に「証拠を見せて」など「証拠」と言う単語が飛び交っていると思います。
本山専修寺のご本尊である阿弥陀如来は「証拠の如来」と呼ばれています。
なぜなのでしょうか?
室町時代中期、天台宗の延暦寺は浄土真宗本願寺派と対立していました。延暦寺は同じ浄土真宗である高田派も同一視して敵視して来た為、真慧は比叡山に赴き高田派は本願寺派とは全く別であることを陳述しました。
更に7日間にわたって親鸞の教えである浄土真宗の教義を講義したところ延暦寺の僧侶等は感動し高田派こそ真宗の教えを正しく受け継ぐ教団であると認めました。
そして、その証拠にと真慧は延暦寺から第3代天台座主円仁(慈覚大師)が一刀三礼で彫り上げた阿弥陀如来立像を譲り受けました。
それ以来、この阿弥陀如来立像は「証拠の如来」と呼ばれ本山専修寺の本尊となっていると言うことです。
それでは、そんな歴史を持つ本山専修寺の境内を少し巡ってみましょう!↑専修寺_山門↑専修寺_唐門↑専修寺_御影堂(日本で5番目に大きい木造建築物とされている)↑専修寺_如来堂↑専修寺_茶所↑専修寺_鐘楼↑専修寺_大玄関↑専修寺_対面所↑専修寺_食堂↑専修寺_太鼓門↑専修寺_通天橋↑専修寺_通天橋↑専修寺_御廟唐門及び透塀↑専修寺_御廟拝堂
如何でしたでしょうか?
広い境内を持つ本山専修寺ですが、この境内は寺内町(じないちょう)である一身田の一部です。
寺内町は、多くは浄土真宗の寺を中心に、寺と町が合体して作られた町を意味します。イメージ的には広い寺の敷地の中に都市があると言った感じです。
ちなみに門前町 は、寺や神社の門前に発展した都市を指します。寺内町とは違い、寺の中ではなく、寺社の門の近くや、道の周りに広がってできた都市になります。
一身田の歴史に少し触れてみましょう。
人々が一身田に集落を形成しだしたのは、寺内町が生まれる前のことであり、当時は農村集落であったと考えられています。
寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではないようです。
一身田にある一御田神社(いちみだじんじゃ)の1592年の棟札に「寺内」と言う記載があることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられています。
前述した、「下野国高田の本寺専修寺が1526年に兵火によって焼失後に教団の中枢が無量寿院に移り、本山専修寺と呼ばれるようになった」と言う流れからすると1500年代中頃から寺内町が形成されて行ったのではないでしょうか。↑一身田
ところで、環濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つと言うのが寺内町の大きな特色の一つです。
一身田にも寺内町と呼べる証拠の一つとして環濠が残されています。
しかも一身田の環濠は町の四周を囲む全国的にも非常に珍しいものであり、環濠がほぼ完全に残っているのは一身田の他はあまり例がないとのことです。↑一身田_環濠
「論より証拠」
真実を明らかにするには、議論よりも明白な証拠を示す方が確かである。と言う意味ですね。
一身田はこのことわざを忠実に表現していると言えます。
本山専修寺に訪れる際は是非寺内町を形成する一身田も散策してみて下さい。
他にも新たな証拠を発見することが出来るかもしれません!