東長寺に境内に散らばる興味深いもの

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長く続く土塀。

その内側に目を向けると興味深いものがちらほらと見えて来ます。

博多駅博多口から大博通り(たいはくどおり)を歩いて約10分の場所に位置する東長寺(とうちょうじ)です。↑東長寺_土塀↑東長寺の石碑↑東長寺_山門

立派な本堂で参拝するだけでも価値はあるのですが、少しだけ探究心を持って散策してみましょう。↑東長寺_本堂

面白い発見に出会えます。

まず、東長寺の成り立ちです。

唐で修行を終えた空海(弘法大師)は806年10月に博多へ帰着し、翌年4月末まで博多に滞在したとされています。

この間、空海が自ら彫った不動明王像を本尊とし、伽藍を建設したのが東長寺の始まりです。

東長寺は空海が創建した日本最古の寺とされています。↑東長寺_「弘法大師開基密教東漸日本最初霊場」と彫られた石碑

「真言密教が東に長く伝わるように」と祈願されたのが東長寺の名前の由来。

そして、現在でも九州における真言宗の拠点となっています。

さて、東と言えば西ですね。

西にまつわる話を有しているのが六角堂です。↑東長寺_六角堂

六角堂は博多上東町(現・呉服町付近)で売薬や漆問屋を営んでいた商人の豊後屋栄蔵(ぶんごやえいぞう、別名:万歳楼袖彦(ばんざいろうそでひこ))が名古屋以西の商人から浄財を募り、名古屋の堂宮大工・8代伊藤平左衛門(いとうへいざえもん)を招き建立し寄進した仏殿です。

なぜ、名古屋以西なのかは分かりませんが「真言密教が東に長く伝わるように」との思いからすると、少なくとも名古屋までは到達していると言う事ですね 笑

その一方で遠隔地の名古屋ではなく、東福寺のお膝元で真言宗に影響を受けた人物のお墓が境内の片隅にあります。

福岡藩2代藩主でもある黒田忠之(くろだただゆき)のお墓です。↑東長寺_黒田忠之の墓(中央奥)

忠之の祖父は戦国時代に豊臣秀吉の軍師として大活躍した黒田官兵衛(くろだかんべえ)であり、父親は関ヶ原の戦いで東軍につき大きな戦功を挙げ、徳川家康より筑前国(現在の福岡県の大部分)に52万3千余石の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となった黒田長政(くろだながまさ)です。

偉大な祖父と父を持つ忠之ですが、忠之は不名誉ではありますが江戸時代の「三大お家騒動」の一つ「黒田騒動」の原因となった人物です。

まー、それでもある意味、歴史に名を残したと言う意味では黒田家の血筋を継いだといえるかもしれませんね 笑

さて、黒田家の菩提寺は禅宗寺院の崇福寺(そうふくじ)ですが、なぜ、忠之のお墓は真言宗の東長寺にあるのでしょうか?

父・長政は忠之の幼少のころの教育を真言宗の僧侶に任せました。これが原因となって忠之は真言宗に帰依し、菩提寺を空海が開いた博多の東長寺にするように遺言を残した為です。

ちなみに、忠之のお墓は個人の墓では高野山にある徳川二代将軍秀忠夫人の墓に次いで、日本で二番目に大きい墓ということです。

忠之のお墓は日本で二番目に大きい墓ですが、東長寺には日本一のものも存在しています。

福岡大仏」です。↑東長寺_福岡大仏(実物は撮影禁止)

高さ10.8メートル、重さ30トン。福岡大仏は木造(檜)坐像では、日本一の大きさです。

ちなみに高さに関しては人間の煩悩の数(百八とされる)にちなんで、像高10.8メートルとなっているそうです。↑東長寺_鐘楼(中央)の後ろ福岡大仏が鎮座している建物(後方)

以上、東長寺に散りばめられた興味深いものを紹介させて頂きましたが、最後にもう一つ。

朱塗りの鮮やかな「五重塔」です。

↑東長寺_五重塔

5階の部分には空海が持ち帰ったといわれる仏舎利(釈迦の骨)が収められているのだとか。

真意は定かではりませんが、もし本当だとしたら凄いですね。

如何でしたでしょうか?

東長寺を注意深く散策すると面白いものが色々と発見出来ましたね。

いつもは何気なく通勤している道沿いなどにも意識を向ける事で新しい発見があるかもしれません。

東長寺には他にも何か面白いものが潜んでいるかもしれません。東長寺に訪れた際は、是非探究心を持って散策してみて下さい。

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