蓬莱橋の名前から見えて来る伝説

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一直線に伸びる橋の先端は目視する事が出来ません。

全長897.422メートル、幅2.7 mの歩行者と自転車を専用とする木造の橋。

静岡県島田市を流れる大井川に架かる蓬莱橋(ほうらいばし)です。

↑蓬莱橋

1997年(平成9年)12月30日には「世界最長の木造歩道橋」としてギネス世界記録に認定されています。↑ギネスブック世界記録認定書のモニュメント

なぜ、このような橋が架けられたのでしょうか?

蓬莱橋の西岸側には起伏に富んだ牧之原台地が広がっています。

1860年、江戸幕府の咸臨丸の艦長として渡米した勝海舟(かつかいしゅう)はお茶が世界的な商品価値を秘めている事を認識しました。

これが発端となり、海舟は不毛の地とされていた牧之原台地を開墾して茶畑とするよう命じます。↑勝海舟の像

開墾が進むと橋の東岸に位置する島田から開墾に参加する人、西岸の牧之原台地から島田の人々と交流する人達が増加しました。

↑蓬莱橋西岸の風景(牧之原台地側)↑蓬莱橋東岸の風景(島田側)

この時、大井川を渡る手段は小舟でしたが、あまりにも大変な事だった為、静岡県に橋をかける願いが提出されます。

江戸時代、大井川には「橋を架けられる技術が無かった」「江戸の防衛の為の軍事的・政治的な目的」などの理由により橋が架けられる事はありませんでしたが、時代は明治へと変わっていた為、1879 年(明治 12 年) 1 月 に無事、蓬莱橋が完成しました。

今でも東岸の農家が西岸の茶園を管理するための農道として利用されているそうです。↑蓬莱橋

当初の橋脚は木製でしたが大井川が増水するたびに流失や破損する為、補修を繰り返しました。

そこで、1965 年(昭和 40 年)にコンクリートの橋脚(川岸の堤防付近は木造)に変えられ、渡し板は木製と言う現在の姿となりました。

ちなみに、蓬萊橋の通行は有料であり維持管理のため以下の通行料金が発生します(2022年現在)。

・歩行者:大人 – 100円

・歩行者:小学生以下 – 10円

・自転車 – 100円↑蓬莱橋(料金箱)

ところで、蓬莱橋の名前の由来を探ると興味深い話に行き着きます。

静岡藩七十万石の藩主となり、後に静岡藩知事となった徳川家達(とくがわいえさと)が、牧之原台地の開墾に携わっていた旧幕臣の中条景昭(ちゅうじょうかげあき)に対し「農は里の宝、向こうの山は宝の山、みなで力をあわせ宝の山を切り開けよ」と激励しました。

この話がきっかけとなり宝の山を意味する蓬萊山から蓬莱橋と名付けられたそうです。

と、ここまでは蓬莱と言う名は徳川家達の発言が発端となっていますが、偶然なのか必然なのか蓬莱橋の西岸は蓬莱山とは無縁ではなさそうです。↑蓬莱橋西岸の風景(牧之原台地側)

蓬萊山とは古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むと言われていた仙境の一つを指します。

日本各地には徐福伝説が残されています。

徐福とは秦の始皇帝に仕えた方士(ほうし)です。

方士とは呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学などによって不老長寿を成し遂げようとした修行者の事を指します。

徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け東方に船出したと伝えられています。

東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた場所で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のこと。

徐福が目指した先の一つに蓬莱山が含まれています。

そして、徐福伝説が蓬莱橋の西岸にも残されているのです!

古代は蓬莱橋の近くに海岸線があったのではないかと推測されており、徐福一行がこの辺りで不老不死の薬を探していたと言う伝説です。

牧之原台地は本当に蓬莱山だったのかもしれません!

蓬莱橋の名前はこの名前になるべくしてなったのかもしれませんね。

偶然と思われる事も突き詰めると偶然ではない事が分かる可能性がある事を示唆しているようです。↑蓬莱橋のど真ん中の明示↑蓬莱橋

最後に蓬莱橋は名前も縁起が良いですが、橋そのものご利益スポットとなっている事をお伝えしておきます。

・橋の長さが897.4mということから、「897.4」=「やくなし」=「厄無し」。

・世界一長い木の橋ということから、「長い木の橋」=「ながいきの橋」=「長生きの橋」。

ご利益スポットの蓬莱橋を渡って是非ご利益をGetしましょう!

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