多種多様な故事に彩られた鼠ヶ関に残る伝説

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鼠ヶ関_弁天島

日本海に面し江戸時代には北前船が寄港した鼠ヶ関(ねずがせき:山形県鶴岡市)。

古くから何らかの形で多くの境界線が引かれて来た土地である。

01 鼠ヶ関から望む日本海

↑鼠ヶ関から望む日本海

日本書紀の658年の記事に「都岐沙羅柵(つきさらのき)」という古代城柵があった事が記されている。大和朝廷が蝦夷からの侵入を防ぐ為に設けた城柵とされ、確固たる証拠は見つかっていないが鼠ヶ関周辺にあったと言う説がある。

平安時代は「白河関(しらかわせき)」「勿来関(なこそのせき)」と並び「奥羽三関(おううさんかん)」の一つとされ東北地方への玄関口となっていた。

江戸時代に入ると1872年(明治5年)に廃止されるまで「鼠ヶ関御番所」が置かれた。1924年(大正13年)には「念珠関址(ねずがせきし)」として内務省指定史蹟に指定されている。

但し、1968年(昭和43年)の発掘調査で別の位置に古代関所が発見されている。これにより現在は鼠ヶ関御番所が置かれた場所を「近世念珠関址」、古代関所が置かれていた場所を「古代鼠ヶ関址」としている。

02 鼠ヶ関_近世念珠関址

↑近世念珠関址

ちなみに鼠ヶ関と念珠関と文字が異なるのには訳がある。それは後ほど触れさせて頂きたい。

以上のような境界線としての役割を果たして来た鼠ヶ関であるが今も尚、山形県と新潟県の県境としてその役割を担っている。

続いて鼠ヶ関の語源に注目したい。こちらも多くの説が存在していて興味深い。

◆蝦夷の蔑称を鼠と称して、蝦夷地との境に置かれた関を鼠ヶ関とした。

◆鼠ヶ関の地形を見ると海岸線近くまで山の端が迫っている為、嶺隅(ねずみ)や根津(ねづ)と呼んだ。あるいは根締から転じた。

◆鼠が食った跡のような穴があいている石から。

◆海岸に連なる小島を念珠に例えた。

◆十二支の「子(ネ)」は「北」を指す事から最北の関とした。

◆寝ずに張番をした関所

さて、語源もさることながら地名そのものものにも多くの呼び名が残されている。

◆記述としては平安時代中期の僧侶・歌人である能因法師(のういんほうし)の「能因歌枕」に「ねずみが関」として最初に顔を出す。

◆成立時期は不明だが平安時代末期に起きた「保元の乱(ほげんのらん)」の顛末を描いた「保元物語」は「念誦の関」としている。

◆南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている源義経(みなもとのよしつね)の生涯を描いた「義経記(ぎけいき)」には「念珠の関」として登場する。

◆鎌倉時代に成立した歴史書であり鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)の将軍記である「吾妻鏡(あずまかがみ)」には「念種関」と表記されている。

◆江戸時代に活躍した俳人・松尾芭蕉は「おくのほそ道」で「鼠の関」としている。

◆1889年(明治22年)の町村制施行により「山形県西田川郡念珠関村大字鼠ヶ関」、2005年(平成17年)の市町村合併で「鶴岡市鼠ヶ関」になった。

一つの地名に対しこれだけ呼び方が残されている土地は珍しい事ではないだろうか。

多くの「境界線としての役割・語源・地名」に彩られた鼠ヶ関だが多くとは言い難いがこの地に残る源氏に関わる言い伝えを紹介して締めしめくくりたい。

◆源頼朝、足利尊氏などの祖先に当たり八幡太郎(はちまんたろう)の通称を持つ源義家(みなもとのよしいえ)は父・頼義(よりよし)の安倍貞任 (あべのさだとう)討征の折、鼠ヶ関付近で対戦。二年間に亘って激戦をくりかえしたという言い伝えがある。

◆源頼朝が陸奥の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討つ際に、比企能員(ひきよしかず)、宇佐美実政(うさみさねまさ)ら家臣に対し鼠ヶ関を経て出羽に出兵させたとされる。

◆そして最後に源義経伝説である。

今は陸続きの岬になっているがもともとは離れ小島だったと言う弁天島は鼠ヶ関の美観を創出している。義経が兄の頼朝に追われて、日本を北上し奥羽に逃れる際、越後の馬下(村上市)から船に乗り海路を辿ってこの地に上陸したと言う伝説が残っている。

03 鼠ヶ関_弁天島

↑弁天島

04 鼠ヶ関_厳島神社

↑弁天島に祀られる厳島神社

歌舞伎十八番の一つに有名な「勧進帳(かんじんちょう)」がある。

義経一行が北陸を通って奥州へ逃げる際、武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で関所を通り抜けようとする。しかし、関守の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いた為、山伏の一人が義経ではないかと疑いをかけられる。そこで弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、難を逃れたと言うストーリーだ。

ここに出てくる関所は加賀国の安宅の関(あたかのせき:石川県小松市)と言う設定である。

しかし、既に前述したが義経記には念珠の関が記されている。

『念珠の関守厳しくて通るべき様も名ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは「多くの難所を遁れて、是までおはしましたれば、今は何事か候べき。さりながら用心はせめ」・・・・・』と言う著述と共に。

つまり勧進帳のシーンは実際のところ鼠ヶ関だった事になる。

この事から鼠ヶ関は勧進帳発祥の地とされている

05 鼠ヶ関_近世念珠関址

↑近世念珠関址に掲げられている「勧進帳の本家」の看板

「火の無い所に煙は立たない」ではないが鼠ヶ関には何らかの真実が埋もれているかもしれない。でなければこれだけ多種多様の故事が一ヶ所に残されないであろう。

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