茶室「如庵」の経歴は創建者から受け継いだものなのだろうか?

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有楽苑_如庵

障子越しに見える緑の木々。

01 有楽苑

石を完全な形に加工せず自然の状態を残した蹲(つくばい)。

02 有楽苑

不揃いな大きさの飛石。

03 有楽苑

域内は非日常空間を演出していると言える。

それは気持ちを興奮させるものではなく心に凪の状態を創り出してくれる。

美しい日本庭園に足を踏み入れる度にそう思う。

有楽苑(うらくえん:愛知県犬山市)も例外ではない。

04 有楽苑

↑有楽苑入口(岩栖門(いわすもん))

有楽と聞いてピンと来た人もいるだろう。

そう、有楽とは織田信秀(おだのぶひで)の十一男であり13歳離れた織田信長の弟・織田長益(ながます)の別称である有楽斎(うらくさい)から来たものだ。

この男は歴史の重要な局面において何らかの形で関わっている。

兄の信長が本能寺の変(1582年)において明智光秀に襲撃された際には信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)と共に二条城(現在の二条城とは別の場所)に居た。信忠が潔く自刃する中、城を脱出し近江国安土を経由して岐阜へ逃れたとされる。

徳川家康と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が小牧・長久手の戦い(1584年)で対立した時は家康に助力した。

関ヶ原の戦い(1600年)では長男の織田長孝(ながたか)と共に東軍に属し450名の兵を率いて参戦している。

大坂冬の陣(1614年)においては大野治長(おおのながはる)らとともに大坂城で豊臣家を支える中心的な役割を担った。しかし、大坂夏の陣(1615年)の開戦の機運が高まると豊臣家から離れた。

その後は武家を棄て京都建仁寺(けんにんじ)の正伝院(しょうでんいん)を隠棲とし茶に専念、茶道有楽流を創始し、晩年を過ごした。

こうしてみると徳川家と豊臣家の趨勢を見極め戦国時代の終盤を上手く乗り切ったと言えるだろう。

晩年茶人となった有楽斎は前述の正伝院に茶室・如庵(じょあん)を建てている。

そしてこの如庵及びそれに連なる有楽の隠居所だった旧正伝院書院(きゅうしょうでんいんしょいん)と古図に基づいて有楽が大阪天満の屋敷に構えていた茶室を復元した元庵(げんあん)を持つ日本庭園が有楽苑である。

05 有楽苑_旧正伝院書院↑旧正伝院書院(重要文化財)

06 有楽苑_元庵

↑元庵

特に如庵は国宝に指定され京都山崎妙喜庵(みょうきあん)の待庵(たいあん)、京都大徳寺龍光院(だいとくじりょうこういん)の密庵(みったん)と並び国宝茶席三名席(こくほうちゃせきさんめいせき)の一つに数えられている。

07 有楽苑_如庵

08 有楽苑_如庵

↑如庵

では、如庵の経歴を追ってみよう。

1873年(明治6年)に正伝院が永源庵跡地(建仁寺の真北)に移転した際、祇園町の有志に払い下げられた後、1908年(明治41年)東京の三井本邸に移築された。

2年後の1938年(昭和13年)に神奈川県中郡大磯の三井の別荘に移築。

1952年(昭和26年)に文化財保護法によって国宝に指定されている。

そして1972年(昭和47年)名古屋鉄道によって現在の地に移築され今に至る。

波乱万丈の人生を送った有楽斎であるが如庵もまた創健者に劣らぬ波乱万丈な経緯を辿って現在の地におち着いたと言えよう。

さて、最後にもう一度有楽斎に話を戻そう。

有楽斎は徳川家康や豊臣秀吉のように武勇を馳せた武将ではなかった。にも関わらず有楽という名は現代においてもあちこちに見られる。

ツバキの一種に「太郎冠者」と呼ばれるものがあるが別名を有楽と言う。有楽斎がこの品種を好んでいたからだそうだ。学名もCamellia urakuである。

これは俗説だが東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)は、有楽斎が数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領され、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから明治時代に「有楽町」と名付けられたとの事である。

韓国李朝時代に製作された高麗茶碗の中で日常雑器として扱われていたものを井戸茶碗と呼ぶ。その中でも特に典型的な井戸茶碗は大井戸茶碗と呼ばれるのだが有楽斎も所持していた事から大井戸茶碗の事を「有楽井戸」とも呼ぶ。

最後に「如庵」である。一説によれば有楽斎はキリシタンであり如庵は有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から来ていると言う事だ。

もしこれが事実とするならば如庵は波乱万丈の人生を歩んだ有楽斎の遺構にふさわしい名と言えるだろう。

有楽斎は晩年茶の道を極める事により武人としてより文人として名を残した事になる。人生において自分の好きな分野を見つけるのに歳は関係ないと言う事を示唆している気がする。

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