記憶はちょっとした刺激やきっかけによって呼び戻される。
「引揚げる」とは、今までいた場所を引き払って元の所へ戻る事を指す。
一般的には仕事やプロジェクトを完了し現場を去る時などに使ったりする言葉だが、日本人としてこの言葉の重みを忘れてはならない出来事がある。
第二次世界大戦後の台湾、朝鮮半島、南洋諸島、あるは満州、樺太、シベリアなどからの軍人や一般人の引揚げである。
その引揚者の多くが舞鶴港(京都府舞鶴市)へ帰着した。
例えば引揚げと言う歴史上の出来事は広島や長崎に原爆が投下された事、あるいは東京大空襲などと比較すると注目される事が少ない出来事と言える。
そのような意味からすると舞鶴引揚記念館(まいづるひきあげきねんかん)は大変貴重な存在と言える。
↑舞鶴引揚記念館
この記念館は引揚に関わる一連の資料を展示する日本唯一の施設として設立された博物館である。かつて舞鶴引揚援護局跡地者用を見下ろす場所に位置にする。
現在、舞鶴引揚援護局跡地には引揚桟橋が復元されている。↑復元引揚桟橋
世界各地から戻った引揚者だが、特に過酷だったのがシベリア抑留だ。
日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)は1941年(昭和16年)にモスクワで調印された日本とソ連の条約である。相互に領土の保全および不侵略を約束し、締約国の一方が第三国から攻撃された場合、他方は中立を維持することを約束したものだ。
しかし、日本の敗戦色が濃厚になっていた第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に対し宣戦布告をした。
これにより敗退した日本兵は捕虜となった。約60万人とも言われる日本軍捕虜は主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を受けた。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。
ソ連にしてみれば何らかの言い訳はあるだろうが、いずれにしても約束を反故にした事に変わりはない。
これがシベリア抑留である。
舞鶴引揚記念館の収蔵品のうち570点が『舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』として、2015年にユネスコ記憶世界遺産に登録された。
↑ユネスコ記憶世界遺産登録資料
人の記憶と言うのは大変曖昧なもので時と共に薄れて行く。
当事者や直接関わった人はそうでなくとも、無関係な人であればその薄れていく速さは加速されるだろう。
厳寒の環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡したと言う。
例え直接関わっていなくても忘れてはならない事実だ。
シベリア抑留を風化させないよう記念館内には抑留者の生活風景が復元されている。
↑復元されたシベリア抑留の生活風景
不意に記憶が呼び戻された。
時々呼び戻されるこの記憶は私の幼い頃、亡くなった母方の祖父がしてくれた話である。
少し汚い話であるが許して頂きたい。
祖父はシベリア抑留経験者の一人だった。
『トイレで用を足した後は紙がないので備え付けのロープを跨いで拭き取った。それがあまりにも冷たいので非常に辛かった』
『凍った犬の糞が地面に落ちていてそれを食べた。凍っていて何か分からなかったがあまりにも腹が減っていたので食べたが、後で犬の糞だと知った』
と言った話だ。
どれだけ過酷な状態に置かれていたのか想像するに難くない。
幼い頃この話を聞いても何の事なのかよく分からなかった。つい最近までは多分シベリア抑留の話だったのだろうと勝手に思っていた。
今回、舞鶴引揚記念館の訪問をきっかけに母に聞いたところ、やはりシベリアに抑留されていたとの事であった。そして日本に帰着した時の港は舞鶴港との事だった。↑当時の舞鶴港の模型
祖父は脳卒中で倒れて手足が不自由だった。
医者からリハリビリをすればある程度回復すると言われたそうだが、リハビリは辛いものである。シベリアで過酷な経験をしているのでこれ以上辛い思いをしてまで治さなくても良いと言って亡くなるまで手足が不自由のままだった。
祖父の家は日本でも有数の豪雪地帯に有った。その豪雪地帯に住んでいた祖父でもシベリアの極寒の地の記憶には抗えなかったと言うわけだ。
記憶はちょっとした刺激やきっかけによって呼び戻される。
舞鶴引揚記念館は貴重な存在である。
そう言った意味ではやはり世界記憶遺産への登録と言うものは物事を風化させない有効な手段と言える。