田辺城で学ぶ武器の使い方

このエントリーをはてなブックマークに追加

城は適当な場所に適当に造れば良いと言うものではない。

それは田辺城(たなべじょう:京都府舞鶴市)別名舞鶴城(ぶかくじょう)も例外ではなかった。田辺城は西舞鶴駅の北方、伊佐津川と高野川に囲まれた平地にあり、南は湿原、北は舞鶴湾と言う防御に適した土地に築城された。

現在は本丸と二の丸の一部が舞鶴公園として整備されている。1992年(平成4年)には立派な城門(大手門)が復元された。2階は田辺城資料館になっている。しかし、この城に土地の条件や防御の為の備えは必要なかったかも知れない。

この大手門から両側に伸びる塀は均整の整った石垣を持ち、幾つもの狭間(さま:城の内側から弓矢、鉄砲などで攻撃する為の穴)を備えた白く鮮やかな漆喰の壁が美しい。ペンは剣よりも強し」

本来の意味とは異なるかも知れないが、この格言を実践した人物がいる。

田辺城(たなべじょう)の築城主である細川藤孝(ほそかわふじたか)だ。

藤孝は幽斎(ゆうさい)の名で呼ばれる事も多い。足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた戦国時代の荒波を乗り切った武将である。↑細川幽玄(大手門資料館展示)

幽斎も剣や刀などの武器を使用する戦場に何度も赴いている。

そのような勇猛果敢な武人がどうやってペンで対応したのだろうか?

ペンとは、要するに思考・言論・著述・情報などの事である。

これらの基礎になっているものは言葉だ。

日本語を美しく表現した言葉の集まりと言って良いものに「和歌」がある。

和歌と言う単語は漢詩に対比される日本語の詩を意味する言葉として造られた。

和歌の訓は「やまとうた」である。つまり和歌は日本固有の歌を意味する。その概念は平安時代の「古今和歌集(こきんわかしゅう)」の成立によって確立した。

田辺城の戦い(1600年)でこの古今和歌集が幽斎にとっての武器になったのだ。1600年の関ヶ原の戦いで父・幽斎から当主の座と田辺城を引き継いだ細川忠興(ただおき)は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。

その関ヶ原の戦いの直前、忠興は家康の会津出兵に参戦していた為、幽斎は自分の居城としていた宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、田辺城に入城し、留守居役500人と共に籠城した。

その手薄となった田辺城に西軍1万5000人が押し寄せたのである。ここで古今和歌集の出番が回って来る。

古今和歌集は勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう:天皇や上皇の命により編纂された歌集)で最も権威あるものだった。その読み方や解釈は秘伝として師から弟子に伝えられた。

これを古今伝授(こきんでんじゅ)と呼ぶ。

そして幽斎はこの古今伝授のたった1人の伝承者だった。

もし、幽斎が討ち死にすれば、古今伝授が途絶えてしまう。つまり古今和歌集存亡の危機と言う事になる。

時の天皇・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は古今伝授が断絶することを危惧し勅使を遣わした。

勅命の内容は、西軍は囲みを解き幽斎は開城すべしと言うものだった。籠城後、50日目の事である。

その2日後に家康率いる東軍が勝利した。関ヶ原の戦いでの忠興の活躍、幽斎の田辺城籠城での殊勲を受け細川家は豊前中津39万9000石、そして肥後熊本54万石の大大名へと出世していったのである。

幽玄の古今伝授というペン(武器)が戦国時代の荒波を乗り越えるきっかけを作ったと言える。

「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」(現代語訳:変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものである(そのように私の歌と心も残るのならば有り難いことだ))。

幽斎が籠城戦の際に詠んだ和歌である。↑幽玄の歌碑

「ペンは剣よりも強し」

幽斎は剣や刀などの武器に勝ち、歌と心は残った。

このエントリーをはてなブックマークに追加