自然界が編み出す雄麗な芸術品。
宮島(広島県)、松島(宮城県)と並び日本三景の一つに数えられる天橋立である。↑日本三景碑
砂州とは「水の流れや風によって運ばれた土砂で出来、入江の一方の岸から対岸に届いているか、または届きそうに伸びている州」の事を言う。
その砂州の代表格とも言えるのが天橋立だ。
↑天橋立の石碑
天橋立の簡単な出現経緯は以下の通りである。
約6,000年前頃、海底に水中砂州が形成され、それが約2,000年〜3,000年前の海面低下時期に海上へ現れた。そこへ地震によって地滑りが起こって発生した土石流などが堆積し、砂州が大きくなっていった。
長い年月をかけて人の力では造り出す事のできない芸術品に仕上がったと言うわけだ。
これは地質学的視点からの出現経緯だが、別に出現経緯の話がある。
丹後風土記に出て来る「イザナギが天から妻のイザナミのいる元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)の奥宮である真名井原(まないはら:現在は元伊勢籠神社の奥宮である真名井神社がある)へ通うために梯子を作ったが、イザナギが寝ている間に梯子が倒れて今の天橋立の形になった」と言う話だ。
イザナギとイザナミは日本創生に関わったとされる神様だが何ともユーモラスな話である。
元伊勢籠神社と真名井神社は天橋立の北側に位置する。その裏手にある笠松公園から眺める天橋立の景観は「斜め一文字」と呼ばれる。真っ直ぐ伸びる姿はまさに梯子と言った感じだ。
↑天橋立(斜め一文字)(出典:フリー写真AC)
ちなみに元伊勢籠神社には5柱(はしら)の神様が祀られている(神様の数え方は柱を使う)が、その内の1柱が伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)に祀られている豊受大神(とようけのおおかみ)であり、豊受大神が「真名井原」の地(真名井神社のある場所)に鎮座したと伝えられている。それが元伊勢籠神社と呼ばれる由縁である。
↑元伊勢籠神社
↑真名井神社
このように天橋立の北側にはイザナギとイザナミの神話が残されているが、南側を見ると別の顔が見えて来る。
その一つの顔が智恩寺(ちおんじ)である。↑智恩寺の山門↑智恩寺の本堂(文殊堂)↑智恩寺の多宝塔
808年に平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺として創建されたと伝えられているこの寺の御本尊は文殊菩薩である。「切戸(きれと)文殊」あるいは「九世戸(くせど)文殊」と呼ばれ、安倍文殊院の「安倍文殊」(奈良県桜井市)、大聖寺の「亀岡文殊」(山形県高畠町)と並び日本三文殊の一つとされている。
文殊様と言えば「三人寄れば文殊の智恵」と言うことわざで知られているように智恵の仏様である。
そんな事もあってと思うが境内には「智恵の輪」と呼ばれる輪灯籠がある。
実際のところ、なぜ「智恵の輪」と呼ばれるようになったのかは定かではないそうだが江戸時代中期の絵図に描かれているとの事だから古くからあるもののようだ。↑智恵の輪
ところで智恩寺の文殊様はイザナギ・イザナミと関わりがある。
イザナギとイザナミが暴れる龍を鎮めようと文殊様の知恵を借りて龍を大人しくしたと言う話が残されているそうだ。
天橋立の真ん中辺りに天橋立神社が鎮座している、ここの主祭神は明治時代の京都府神社明細帳にはイザナギと記されているそうだ。また、別の江戸時代の書物では主祭神を豊受大神としているようである。↑天橋立神社
天橋立神社はもともと智恩寺の境内にあったものが移されたとの事であるが智恩寺、元伊勢籠神社は天橋立神社が介在する事によって結ばれているのかもしれない。
余談になるがこの天橋立神社のすぐ横に「磯清水」と呼ばれる井戸がある。この井戸は周りを海水の海に囲まれているにも関わらず淡水の水が湧き出ている不思議な井戸である。↑磯清水
さて、智恩寺のある南側から見る天橋立の景観についてである。
こちらは龍が天に舞い上がる姿に見えることから「飛龍観」とよばれている。偶然なのか必然なのか智恩寺に残される龍の話に呼応していると思ってしまう。↑天橋立(飛龍観)
騙し絵の一種で同じ絵であっても見る方向を変えると別の絵に見える技法がある。
天橋立は角度によって梯子(斜め一文字)に見えたり、龍に見えたりする壮大な騙し絵と言える。
やはり自然界が編み出す雄麗な芸術品である。
天橋立は過去に何度も切断の計画が持ち上がったそうだ。自然の力によって出来たものは破壊せずに出来る限りそのままの姿で残して行くのが望ましい。
後世の人々がこの美しい芸術品を見ることが出来るように。
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