海と一体化した伊根の町に伝わる漁の話

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いったい、ここの家達は海と会話でもしているのだろうか?

「家達」「会話」と擬人化したのは、海と話し合いをしなければ調和の取れた趣のある風景を創り出す事は出来ないと感じたからである。

丹後半島の東端に位置する伊根町(いねちょう:京都府与謝郡)の舟屋群重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。↑伊根の舟屋群

舟屋は直接海に面して建築されており1階には船揚場、物置、作業場が設けられ、2階が住居となっている。↑伊根の舟屋内

それが伊根湾の周囲5kmに渡って約230棟も立ち並ぶ風景はここでしかみる事が出来ない。↑伊根の舟屋群

海と一体化しているこの町は訪れる人を魅了する。

しかし、こんなにも海に接していたら天候が荒れた時などはすぐに被害にあってしまうのではないか?と心配になってしまう。

舟屋はどのようにして守られているのだろうか?

理由はその地形にある。

伊根湾は開口部を南に向けた日本海側でも数少ない形状の湾である。その入り口にある青島は天然の防波堤の役割を果たしている。更に海が急に深くなっていることから波が立ちにくい。そして年間を通して潮の満ち引きの差が少ないから湾内は年間を通して穏やかな状態を維持出来ると言うわけだ。↑伊根の舟屋群

伊根の歴史は古く、平安時代には既に「伊禰庄(いねのしょう)」の名で文献に顔を出しているそうだ。

丹後半島は古代より京の都と大陸との交易ルートに位置していた為、大陸との交流が盛んな場所だったとされている。

そんな理由から伊根にも古くから人が住み着いていたのだろう。

「日本書紀」「万葉集」「丹後国風土記」には詳細は異なるものの伊根の浦島伝説が記載されているらしい。

更には秦の始皇帝の家臣だった徐福(じょふく)が不死の薬を献上する為、海を渡りこの地に漂着したと言う徐福伝説まで残されている。

伊根はもちろん漁業が盛んである。↑伊根の舟屋群

伊根湾に浮かぶイケスでは脂の乗った最高級のブリが養殖されている。

伊根は富山県の氷見、五島列島の三井楽(みいらく)と並び日本三大ブリ漁場の一つに数えられているのだ。↑ブリのイケスと伊根の舟屋群

今はブリの漁場となっている伊根だが室町時代の天文年間(1532~1554年)から鯨漁も行われていたそうだ。

地区の古文書「鯨永代帳」によると、江戸時代初期の1656年から1913年(大正2年)まで257年間で、ザトウクジラ、ナガスクジラ、セミクジラの計355頭を捕獲したことが記録されているとの事だ。↑伊根の舟屋群

大正時代まで鯨漁の歴史を持つ伊根湾には昭和の時代になってから長鯨と言う名の鯨が現れた。

といっても長鯨は本物の鯨ではない。

1944年(昭和19年)機雷で封鎖された瀬戸内海から舞鶴港に移動した軍艦が伊根湾へと廻航し投錨した。

伊根湾に現れた鯨と言うのは潜水母艦・長鯨(ちょうげい)の事である。

潜水母艦とは潜水艦を接舷させ食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う海軍における補助艦艇の一つを指す。

1945年(昭和20年)7月30日午前6時過ぎ、この長鯨を目がけて米軍艦載機グラマン3機が飛来し、爆撃した。これにより約400名の乗組員中、105名が戦死。負傷者約100名。艦は大きく損傷した。

一方、長鯨の周囲にもその被害は及び、伊根湾には多くの魚が白い腹を上にして浮かび上がり、舟屋も機銃の流れ弾で穴だらけになったそうだ。

ただ、これらの記録は、当時の軍の命令で、役場の公的書類をはじめ、何も残されていないと言う。

何事もそうだが陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することでその事象・存在は成り立つ。

だとすれば、長鯨への空襲も今は穏やかな情景に囲まれた伊根の町に残る暗い傷跡だが鯨の歴史と共に後世に引き継いで行かなければならない歴史の一場面だろう。↑伊根の舟屋群

『虎伏す野辺、鯨寄る浦(とらふすのべ、いさなよるうら)』

野生の虎が生息する野、鯨が泳ぎ寄ってくる海辺の意から、人跡稀な土地、未開な土地のことを表すことわざである。

伊根の町は人跡稀な土地、未開な土地ではないが、人が余計な手を加えなければ鯨寄る浦として現在の風景を維持し続けるだろう。

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