「五個荘」の町の成り立ちから見る近江商人発祥の理由

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白壁と板張りの塀が互いに影響し合って創り出された穏やかな空間。五個荘(ごかそう:滋賀県東近江市)の町並みです。

この穏やかな町並みからは想像出来ませんが、かつてこの一帯はある戦の主戦場になりました。

その戦とは戦国時代、五個荘を支配下に治めていた近江守護である六角義賢(ろっかくよしかた)・義治(よしはる)父子と織田信長が戦った観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい:1568年)です。

この戦は信長が天下布武を掲げて以降最初に挑んだ戦であり勝者となった信長が天下人として名乗りを上げる契機となった戦でもあります。

さて、戦国時代が終わり江戸の平和な時代になると商業が活発になりました。

その商業で活躍した人達の一つに近江商人がいます。

近江商人は大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つであり、五個荘は近江商人発祥の地の一つです。

近江商人の起源は古く鎌倉・南北朝時代にまで遡ります。

近江とは現在の滋賀県の旧名なのですが、滋賀県と言えば琵琶湖ですね。

その琵琶湖を中心に物資の交流が盛んだった近江では多くの市が開かれ、その市で商品の売買に従事した人達が商品の仕入れ販売の範囲を広げていった事が近江商人の始まりと言われています。

それでは近江商人が暮らした五個荘の街並みを少し巡ってみましょう!

少しだけ屋敷の中を覗いてみましょう(今回は近江商人を題材にした小説を多く出している作家外村繁(とのむらしげる)の生家(外村繁邸)の見学となります)。

↑川戸(かわと):屋敷内に水路を引き込み、屋根をかけ洗い場となっている(防火用水も兼ねており、魚も飼う事が出来る)

如何でしたでしょうか?

情緒漂う穏やかな町並みは日常の忙しさを忘れさせてくれますね。

更に、近江商人について詳しく知りたい方は近江商人博物館へ是非足を運んで下さい。あなたも商人の才能が芽生えるかも?↑近江商人博物館

ところで五個荘地区の中でも近江商人の屋敷が集中するエリアを五個荘金堂と呼びます。

金堂(こんどう)とは本尊を安置する寺院の仏殿のことを指しますが、五個荘金堂の名前の由来は聖徳太子がこの地に金堂を建立したという伝承に由来するからだそうです。

現在の大城神社(おおぎじんじゃ)北東には7世紀創建と推定される金堂廃寺跡が、地区中心部には聖徳太子開基の伝承をもつ浄栄寺があります。↑大城神社

↑浄栄寺

少しこじつけ感がありますが五個荘の町は商人にとって重要なお金(=金堂=金つながりです 笑)から発達したと言えなくもありません。

前述しましたが信長が天下人として名乗りを上げる契機となった観音寺城の戦いは五個荘が主戦場でした。信長は岐阜城下で楽市楽座の政策を取りました。これが商人にとって有効な政策だった事は間違いありません。おそらく観音寺の戦いの頃と重なるでしょう。

金堂しかり、信長しかり、五個荘は商売に関する何か不思議な力で覆われているのかも知れませんね。

ただ、この不思議な力も近江商人の精神・思想が引き寄せているかもしれません。↑近江商人(外村繁邸展示物)

ご存知の方も多いと思いますが近江商人と言えば「売り手に良し、買い手によし、世間によし」の「三方よし」の精神がありますね。

要するにWin-Winの関係です。現代風に言えばCSR(企業の社会的責任)と言ったところでしょうか。

「三方よし」以外にもビジネス成功の源泉のような精神・思想が多くあります。

例えば「先義後利栄」「利真於勤」などです。

「先義後利栄」は、商いは利潤を追求する事が第一ではなく、常についてまわるものであるという考え方。

「利真於勤」は、利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方。

今、日本の雇用形態、経営手法は欧米型へと移行しつつありますがこのような精神・思想はこれからも日本的な経営理念として引き継がれて欲しいところです。

五個荘に訪れた際は近江商人の精神・思想を思い出しましょう!

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