歴史のいたずらを感じられる草津宿

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歴史というものは後世の人のために時々いたずらをしたくなるのでしょうか?

今回はそんな事を感じさせてくれる話です。

鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派である時宗(じしゅう)の開祖・一遍(いっぺん)の布教活動を忠実に記録した文献に一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)と呼ばれるものがあります。

この文献の巻七に「一遍が東国巡歴ののち尾張、美濃を経て京都に向かう途中、草津において夜中、にわかに雷にあい」と言う文面があり、これが草津の地名が文献上に現れた最初のものとされています。

草津と言っても草津温泉(群馬県)の草津の事ではありません。滋賀県の琵琶湖に接した草津市の事です。

草津は地理的に東西を移動する際の交通の要衝に位置する為、古くから開けた場所でした。

最も発展が加速した時期は徳川家康が1601年に五街道を整備し東海道の52番目の宿場として草津宿が誕生した時と言えるでしょう。

1843年の記録によると、宿内の家数586軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋72軒、宿人口は2,351人であったと言う事です。

旅籠数は東海道53次の宿場でも上位に入り、江戸と京を往来する旅人や物資で賑わっていた事が想像出来ます。↑現在の草津宿の様子

更に、草津宿は東海道の52番目の宿場町であると共に同じく五街道の一つである中山道(なかせんどう)の68番目の宿場町でもあり、東海道と中山道の分岐点の宿場でもあります。↑分岐点の現在の東海道の様子↑分岐点の現在の中山道の様子↑東海道と中山道の分岐点にあるマンホールの蓋

この分岐点の事を「追分(おいわけ)」、そこに立てられている道標を「追分道標」と言い、現在も、草津市の文化財として草津宿の追分に火袋付きの石造追分道標が残されています

これから旅をする人、旅から帰って来た人。当時の人達はこの道標を見ながらそれぞれの旅に対する思いを胸に響かせていたに違いありません。↑追分道標

草津宿には、この追分道標の他にも当時の面影を残している重要な史跡があります。

東海道で唯一、ほぼ原型が残る本陣としては国内最大級草津宿本陣(くさつじゅくほんじん)です。

↑草津宿本陣

本陣(ほんじん)とは、 江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、幕府役人などの宿泊所として指定された家の事を言います。

草津宿本陣の宿泊者を見ると歴史に登場する有名な人物が宿泊しています。

例えば、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の正室となった和宮(ずのみや)、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師シーボルト、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)などです。

面白い所では、赤穂事件(忠臣蔵)で対立関係にあった浅野内匠頭一行、吉良上野介一行が9日違いで宿泊したと言う事です。

1702年12月14日の討ち入りの3年前(1699年)の宿泊と言う事ですからお互いに後々に起こる大事件の事などは知らずにいたわけですね。

歴史のいたずらと言ったところでしょう。

↑草津宿本陣

さて、もう一組、有名な宿泊客を紹介させて頂きます。

それは新撰組です。

これまで、新撰組が隊士募集の為、江戸へ向かう途中に土方歳三らが草津宿本陣に謝礼を支払った記述が大福帳(だいふくちょう:商家で、売買の勘定を記す元帳)にあることは知られていたそうですが、本陣は大名や貴族あるいは公用の幕府の役人しか泊まれない事から本当に宿泊したかどうか疑問視されていたと言う事です。

ところが、ある事がきっかけで新撰組が宿泊した事が決定的となりました。

それが「忘れ物」です。

2019年、「失念物(忘れ物)」と見られる資料18点が見つかり、その忘れ物の一部に付けられた紙の札に「新選組様 五月二日御泊」と書いてあったことから、土方たち新選組一行が宿泊していたことが明らかになりました。

こちらも、浅野内匠頭一行、吉良上野介一行の件と同様に歴史のいたずらと言えますね。

皆さんの日常の何気ない行動もそれが何かは分かりませんが後々大きな出来事に関わる可能性を秘めていると言えるのではないでしょうか。

話はそれますが、草津の市の花は「アオバナ」です。アオバナの学術名は「大帽子花(オオボウシバナ)」と言い、つゆくさの変種です。↑アオバナ(出典:ウィキペディア)

草津では「青花紙(あおばながみ)」の原料として江戸時代からアオバナが栽培されて来ました。

青花紙と言うのはアオバナの青い絞り汁を染み込ませた和紙の事を言い、すぐ脱色できることから京友禅や絞染の下絵を描く絵の具として利用されています。

話を新撰組に戻しましょう。

現代では、新撰組と言えば浅葱色(薄い藍色、水色)のダンダラ羽織がトレードマークのようになっていますが、実際のところ、詳細はあまり良くわかっていないようです。

ただ、新選組隊士の永倉新八(ながくらしんぱち)の回顧録に、京の大丸呉服店で麻の羽織などを新調したことが記されているそうです。

この事から新撰組の羽織は草津宿のアオバナを使用した京友禅で仕立てられたと推測出来ます。

草津宿周辺に咲くアオバナの風景を見て隊士のトレードマークとも言える羽織のデザインが浮かんだのかもしれませんね。

もしそうであれば、これもまた何気ない行動が後世の人に強烈な印象を与えるきっかけとなったと言えるでしょう。

草津宿に訪れる機会があれば、このような歴史のいたずらと言った視点で史跡巡りをしてみるのも面白いかもしれません。

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