まるで虹のように滑らかな弧を描きながら海岸沿いに壮麗な広がりを見せる松の絨毯。
虹の松原(佐賀県唐津市)は三保の松原(みほのまつばら:静岡県静岡市)、気比の松原(けひのまつばら:福井県敦賀市)と並び日本三大松原の一つに数えられている。
虹の英語はご存じの通りRainbow(レインボー)。その意味は「雨の弓」。
訪れた日はあいにくの雨模様だった。残念ではあったが、それによって雨に覆われた大きな弓を見る事が出来た事はある意味ラッキーだったのかも知れない。
因みに虹の松原の名称はその姿形から名が付いたのかと思いきやそうではいようだ。
はっきりとした理由は定かではないようだが、その長さからもともとは「二里松原」と呼ばれていたものが明治時代に虹の松原と呼ばれるようになったようだ。
虹の松原の付け根に位置する唐津湾に突き出た満島山(まんとうさん)の上に堂々と姿を見せるお城がある。
唐津城だ。
海と山とお城と言う組み合わせがバランスを保ち見事な景観を創り出している。
唐津城は豊臣秀吉に仕えた寺沢広高(てらざわひろたか)が1602年から本格的な築城を開始し1608年に完成させている。
広高は秀吉の朝鮮出兵(1592年:文禄の役)でその拠点となった名護屋城の普請を務め日本軍の補給や兵力輸送で功績を挙げた後に長崎奉行にまで出世した。
秀吉の死後は徳川家康に接近、関ヶ原の戦い(1600年)で東軍につき、その戦功によって天草4万石を加増されている。
広高によって築城された唐津城は舞鶴城と言う別の呼称を持っている。
その意味するところは虹の松原に起因する。
城を起点に東に位置する虹の松原と西に位置する西ノ松原がまさしく大きく翼を広げた鶴の姿を連想させるため舞鶴城と呼ばれている。
そして唐津城の天守台は鶴の両翼となる松原を一望出来る格好のスポットだ。
↑天守台から見た虹の松原
↑天守台から見た西の松原
広高もこの景色を見ていたのだろうか?
ところで鶴の翼のような壮大な風景を演出する虹の松原を造ったのは誰なのか?
実は寺沢広高その人だ。
広高が新田開発の一環として、防風林、防砂林として植樹を行ったのが始まりとなっている。
広高は名君だったようである。有能な家臣を雇う為に質素倹約な生活を送ったなど、その逸話は多く残されている。
ハワイに“No rain, no rainbow” 「雨がなければ虹はない」ということわざがある。
「つらいことや悲しいことがあっても、それを乗り越えたらいいことがある」という意味だ。
広高は、松林の中に自分が愛してやまない松が7本だけあると言ったという。しかし、どの松なのかは指定されていない。人々に全ての松を大切に扱わせるため「もし自分が粗末にした松がその7本のどれかだったら」と思わせるこという心理的な効果を狙ったものと言われている。
広大な敷地面積を持つ虹の松原を育て上げるには長い年月と広高はじめ多くの人達の苦労があったに違いない。
育て上げられた松原は防風林、防砂林としての役割を果たしているのはもちろんのこと現在は唐津の観光資源ともなっている。
広高が造った虹の松原は“No rain, no rainbow”のことわざにピッタリの松原ではないだろうか。
この地を訪れる際には虹の松原と唐津城は必ず訪れて頂きたい場所である。