関門海峡を挟み目と鼻の先には本州。小倉の町(北九州市)は九州の玄関口と言えるでしょう。
町が大きく発展したのは関ヶ原の戦い(1600年)で成果を上げた細川忠興(ほそかわただおき)が豊前国(ぶぜんこく:北九州市東側から大分県北部にかけて)に入国してからです。
↑現在の北九州市街(小倉城周辺)
町の中心部に佇む小倉城は1602年から7年の歳月をかけて忠興によって本格的に築城されました。
現在、天守の内部は展示室となっており小倉城の歴史が紹介されています。
お城の周りには細川氏のあとを継ぎ234年もの長きに渡り城主をつとめた小笠原氏の別邸であった下屋敷跡を復元した小倉城庭園や北九州市出身の小説家・松本清張氏の生涯に渡る業績を展示した松本清張記念館が配置され訪れた人を楽しませてくれます。
↑小倉城庭園
↑松本清張記念館
このように平和な現代におけるお城は文化財として重要な役割を果たしていますが本来の目的は戦時下の重要な拠点です。
その目的からすると小倉城は有効的に?利用されて来たと言えるかもしれません。しかしそれは昭和の時代に小倉城最大の危機を呼び寄せます。しかもその危機は日本史上というよりも世界史上最大と言えるものです。
その危機とは一体何なのか?
まず初めに小倉城が舞台となった主な軍事的出来事を追ってみましょう。
1866年(慶応2年):江戸幕府による第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)の際に小倉藩と長州藩の戦闘において第一線基地となるも長州藩の攻勢に押された小倉藩は城に火を放って退却。
1877年(明治10年):西南戦争の際に乃木将軍率いる歩兵第14連隊が小倉城より出征。
↑小倉城のお堀の横にはかつての乃木将軍の住居が構えられていました。
1898年(明治31年):陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられる。
1933年(昭和8年):小倉工廠(こくらこうしょう)完成。1940年(昭和15年)に小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)に改名(※造兵廠=武器・弾薬などの設計・製造・修理などを行い、その蓄積のために使われる軍隊直属の工場、及び機関のこと)。
小倉陸軍造兵廠は風船爆弾製造工場としては当時日本最大級の規模だったそうです。そしてこれが小倉城最大の危機を導く原因となります。
それは原爆の投下です。
長崎に投下された原爆の第一投下目標が風船爆弾の工場のある小倉陸軍造兵廠だったそうです。しかし爆撃航程に3度の失敗を繰り返したため、その矛先は第二投下目標であった長崎に向けられました。
小倉の町の危機は回避されましたが結局は長崎の町が破壊されてしまいました。これによりアメリカの勝利が決定づけられます。
「一将功成りて万骨枯る」 ※一人の将が功名を成した裏では、万人の犠牲があるということ
太平洋戦争の勝利者はアメリカですが、戦争に限らずあらゆる場面で自分が勝利者となる機会は訪れるでしょう。その背後には犠牲とまでは言わずとも常に誰かの協力や助力があることを忘れないようにしたいものです。
意味合いは異なりますが小倉も長崎の犠牲によって被害が回避されました。
小倉城を訪問した際は原爆の被害から免れた小倉城の背後には代わりに犠牲となった長崎の存在がある事を思い出しながら散策しましょう!
【English WEB site】
http://japan-history-travel.net/?p=4958