その柔らかい手触りと独特の光沢を持った絹は古来より人々を魅了して来た。
生産の起源は古く紀元前3000年頃中国で始まったと言われ、一説には紀元前6000年頃とも言われている。
物の発見は偶然から生まれることが多い。絹もその一つのようである。
時の黄帝の王妃・西陵が湯の中に落としてしまった繭(まゆ)を箸で拾い上げようとした時に巻きついてきたのを見つけたという伝説が残っている。
ご存じの通り絹の原料となる生糸は繭から作りだされる。
その繭は蚕(かいこ)が完全変態する時に幼虫から分泌される。
となると蚕と人とのつながりは5000年~8000年と言う事になる。
とてつもなく長いつきあいだ。
家畜という単語を聞いた時、真っ先に思い浮かんだのが牛や羊、豚などである。
蚕は人が飼育しているからその定義からすると家畜の一つである。昆虫も家畜になりうると言う認識が無かった事に初めて気付かされた。
しかも驚く事に蚕は野性回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物で野性には生息しないと言う。
化学繊維が出て来る以前は農家にとって貴重な収入源の一つでもあったことから蚕のことを「おかいこ様」と言う敬称で呼ぶ地域も残っている。
それくらい人とのつながりが強いと言う事だ。
このような長い人と蚕との歴史の過程において欠かせない一大イベントがある。
日本で最初の官営模範工場「富岡製糸場(群馬県富岡市)」の出現である。
↑操糸場
↑乾燥場
1872年(明治5年)、近代日本が「富国強兵」「殖産興業」の二大国家策の下に操業を開始させる。
当時世界最大規模を誇った富岡製糸場で生産された生糸は世界中に行き渡り、それまで一部の富裕層のものであった絹を大衆にまで広め生活様式のレベルを高めて行った。
これが世界遺産登録(2014年6月)に至った理由の一つにもなっている。
↑操糸場内
一般的に戦前の養蚕業に対しては「あゝ野麦峠」や「女工哀史」などに描かれるような若い女性が過酷な環境下で働く暗いイメージが連想される。
ところが操業当時の富岡製糸場の労働条件を見ると現代の条件とさほど変わりがない事が分かる。
一日辺りの平均労働時間は7時間45分と定められ、季節により勤務時間が変えられた。昼休みや休憩時間が決められ、食事も出るし、工場内に診療所もあれば寄宿舎もあった。休日は日曜日と祭日、年末年始と夏季に各10日間。給料は等級に応じた月給制だった。
↑診療所
↑寄宿舎
更に、ここで働いた松代藩(現長野県松代市)の藩士の娘・和田英(わだえい:旧姓横田英)の回顧録「富岡日記」から、国の期待を背負ってプライドとやりがいを持って生き生きと働く女工達の様子を垣間見ることが出来る。
↑作業風景
↑女工館
富岡製糸場は設備、建物だけでなく労働条件や働く人の意識まで最新鋭だったと言う事になる。
ブラック企業と言う言葉が飛び交う昨今ではあるが、ライン作業者に限らず事務職も含め適切な労働環境が最適な生産性を生み出すと言う事実は昔も今も不変であると言うことだろう。
ところでなぜ富岡製糸場は富岡に建設されたのだろうか?
「広い工場建設用の土地が準備出来た」「機械の燃料となる石炭が近くの高崎から調達出来た」「製糸に必要な多量の水を確保出来た」などが挙げられるが何と言っても「古くから養蚕が盛んで、原料になる繭の確保がしやすかった」と言うのが一番の要因ではないだろうか。
現在でも群馬県は、国内繭生産の40%、生糸生産の25%を占める日本一の養蚕業の県である。
富岡製糸場によって人と蚕のつながり拡大され今も尚それが続いている。
富岡製糸場に訪れた際は機械や建物だけでなく人と蚕のつながりを思いながら見学して頂きたいと思う次第である。
【English WEB site】
http://japan-history-travel.net/?p=4852