戦国時代の情勢が凝縮された恵林寺

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恵林寺

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

この一文は武田氏の菩提寺である乾徳山恵林寺(けいとくさんえりんじ:山梨県甲州市)から放たれ有名になった。

何故この地が発信源となったのだろうか?

恵林寺を訪れると必ず足を止めて眺めるであろう「三門」の名称を持つ壮麗な門が視界に飛び込んで来る。

01 恵林寺_三門 ↑三門

三門の入り口に掲げられた板には

「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅は必ずしも山水をもちいず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)」

と書かれている。

02 恵林寺_三門 1582年(天正10年)3月。織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により武田氏は滅亡した。

しかし武田氏にゆかりのある恵林寺は織田氏に恭順する事はなかった。それが悲劇を生む事となる。

恵林寺に逃げ込んだ織田氏に敵対した佐々木次郎(六角義定)らの引き渡しを要請されるもこれを拒絶した為、焼き討ちにあったのである。

この時、恵林寺の住職だった快川紹喜(かいせんしょうき)が燃え盛る三門の上で唱えたのが「安禅は必ずしも山水をもちいず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」とされている。

厳しい戦国の世を浮き彫りにした事件の一つである。

03 恵林寺_快川紹喜の墓

↑快川紹喜の墓所

ところで、この事件の裏側に真実は定かではないが興味深い話が隠されている。

快川紹喜は美濃国(現在の岐阜県南部)の出身とされ同じ美濃国出身の明智光秀とは同族であったとされる説がある。

恵林寺の焼き討ちを命じた信長に対し光秀はその暴挙を諌めた為、信長の逆鱗に触れたと云う。これが本能寺の変の動機の一つになったと云う事だ。

もしこれが事実なら恵林寺の焼き討ちはまさしく本能寺の変の発火点と云う事になる。

1582年(天正10年)6月。その本能寺の変が起こり信長はこの世から消えた。

信長の死後、武田領は徳川家康によって治められる事となる。家康は武田氏の遺臣を庇護し、恵林寺を再建した。

恵林寺は乱世の渦に巻き込まれその趨勢を見てきた寺と言えるだろう。

04 恵林寺 さて、現代の恵林寺だが訪れる人を魅了して止まない。

開祖の夢窓疎石(むそうそせき)によって築かれたその美しい池泉廻遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)は忙しい現代人の毎日を忘れさてくれるような穏やかな空間を提供してくれる。

05 恵林寺_池泉廻遊式庭園

↑池泉廻遊式庭園

静かに佇む信玄の墓所はその背後に並ぶ約70基の武田家臣の供養塔によって見守られている。「人は城、人は石垣、人は堀」は信玄の残した名言である。信玄の人望の厚さと家臣達の忠誠心を表しているかのように思える。

06 恵林寺_武田信玄の墓所

↑武田信玄の墓所(残念ながら信玄の墓は撮影禁止の為、宝物館の入り口に展示してあった写真を撮影)

07 恵林寺_武田家臣供養塔

↑武田家臣の供養塔。

明王殿に安置されている武田不動尊は信玄自ら剃髪した毛を埋め込んだとされ、焼き討ちからも逃れ現代に至っているそうだ。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」を実行したのだろうか?

武田氏菩提寺に安置されるに相応わしい不動尊だ。

08 恵林寺_武田不動尊

↑武田不動尊(残念ながら武田不動尊は撮影禁止の為、パンフレットの写真を撮影)

乱世の世に放たれた一文「心頭滅却すれば火もまた涼し」ではあるが現代は心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなることの例えとして使われている。

平和な現代であっても悩みや悲しみなど辛いことに接することは頻繁にある。恵林寺はいつも気持ちを穏やかに保つことの重要性を伝えたいのではないだろうか。

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