かつては湖底だったと云う伝説が残る甲府盆地。
武田信玄を中心に、軍法、刑法などを記している軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」にもその伝説が記載されているそうです。
そんな伝説の残る甲府盆地の北の端に信玄を祀る武田神社(山梨県甲府市)はあります。
この神社は武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地に1914年に創建されました。
躑躅ヶ崎館は1519年に信玄の父親である武田信虎(たけだのぶとら)によって建てられた館です。
因みにこの時、信虎は甲斐国の府中(府中には国の政治・経済・文化の中心という意味が含まれています)と言う意味を持たせこの地を甲府と名付けたそうです。
「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」
信玄が残したとされる有名な格言ですね。
「個人の才能を十分に発揮出来るような集団、信頼出来る人の集団を作ることが強固な城を造る事に匹敵する。権力で押さえつければ反発を生み害意を抱くようになる。情理を尽くし誠意を持って接することこそが人を惹きつける。このような考えに基づいて出来た人の集団こそが城であり掘りである。」
概ねこのような意味合いになるでしょう。
この言葉の通り信玄は彼の生涯の中で甲斐国内に城を持つことなく一重の掘りがあるだけの躑躅ヶ崎館を本拠地にし、戦国時代最強の武士として権勢を振るいました。
武田信玄と言えば「風林火山」ですね。
こちらは信玄が軍旗に使用したとされる有名な言葉です。
「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」
実際のところ信玄が使用した言葉なのかどうかは定かではないそうですが信玄の強さを表現するにはピッタリな言葉ですから定着してしまったんでしょうね。
ところでこの「風林火山」の最後の文字である「山(やま)」を名称としていたものが躑躅ヶ崎館にあったそうです。
信玄専用のもので信玄自身が付けた呼称のようです。
以下がヒントです。
家臣が「なぜ山と呼ぶのでしょうか?」と質問したところ「山には草木(臭き)が絶えぬから」と答えたそうです。
何だか分かりますか?
答えは「トイレ」です。
信玄はユーモアも持ち合わせた武将だったんですね(笑)
なんと!このトイレ、水洗トイレだったそうです。
京間六畳分の広さを持ち床は畳敷きで香炉が置かれトイレの底に水が流れるスペースがあり当番の家臣が人力で水を流していたとか(笑)
そのイメージからなんとなく頑固そうに思えてしまう信玄ですが実は水洗トイレ以外にも最先端のものを多く採用していました。
例えば現代で言うところの「タイムカード」や「フレックスタイム」「ボーナス」に当たる制度を導入していたそうです。
あるいは戦の際には竹筒に味噌と塩を仕込みお湯を入れると味噌汁になるインスタント味噌汁も携帯していたそうです。
どうですか?意外と柔軟性のある武将と思いませんか?
ところでインスタント味噌汁は端的に言えば保存食ですが山梨の郷土料理として有名な「ほうとう」は信玄が考案した保存食とする説があります。
ほうとうは保存が効き米より軽く野菜や肉などを加えれば簡単にご馳走となるため野戦に用いられたとのことです。
もしこの説が正しいのであれば保存食として考案された「ほうとう」にも関わらず現在は「インスタントほうとう」がありますから保存食の保存食が出来た事になりますね(笑)
保存食の話が出て来たのでもう一つこの地方で忘れてはならない保存食の話をしましょう。
それは「桔梗信玄餅(ききょうしんげんもち)」です!
餅は日本の伝統的な保存食ですね。
きな粉をまぶした餅に黒蜜をかけて食べる桔梗信玄餅はこの地方発の人気商品です。
信玄餅の起源は武田信玄が出陣の際、非常食として砂糖入りの餅を使っていたというのが起源と言う話もありますがどうやらそうではないようです。
信玄餅メーカーの桔梗屋さんが1968年(昭和43年)に当時の洋菓子ブームに対抗するために開発し山梨県を代表するお土産になって欲しいと言う願いを込めて信玄の名前を借りた」と言うのが本当のところのようです。
ネーミングって大事ですね。
それにしても信玄はお菓子の世界でも最強と言う事になりますね(笑)
桔梗信玄餅はさておき武田氏が戦国時代という厳しい時代に最強の集団となった理由の一つは信玄が常に新しいものを取り入れたからではないでしょうか。
現代は先の見えない不安定な時代です。武田神社に参拝して常に新しいものを受け入れる柔軟性を手に入れましょう!