澄み切った青い空に向かって屹立する超高層ビル。
現代の横浜を象徴する風景の一つである。
明治時代の人々はこのような風景になる事を想像したであろうか?
横浜発展の第一歩として明治の初めに港の埋め立て事業を手がけるなどの貢献をした実業家がいる。
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)である。
高島嘉右衛門は吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、苅部清兵衛(かるべせいべえ)らと共に「横浜三名士」の一人に数えられ「横浜の父」とも言われている。
嘉右衛門の事業を皮切りに現代まで発展し続けて来た横浜。その発展の象徴的な風景を構成している超高層ビルは科学的な根拠に基づく現代の土木技術によって建造されているのだがその科学や技術とは相反する位置づけにあるものの一つが占いや予言であろう。
以下に幕末から明治にかけて、ある人物が予言した内容の一部を紹介する。
■安政の大地震(1855年)の数日前大火が起こることを予知して大量の材木を買収
■伊藤博文の死期及び暗殺者の安重根(あんじゅうこん)を示すと思われる言葉に言及
■自らの死期を予知し、その予知通りに死去
占いや予言は偶然だ。非科学的だと思う人も多くいるであろう。
もし上記の予言を現実主義者と思われる人物が占っていたとしたら?
この予言をした人物は高島嘉右衛門である。
嘉右衛門は易断による占いでも有名で、今でも「易聖」と呼ばれている。
実業家として横浜の発展に寄与すると言う現実的な一面を持つ一方で占いにより未来を予言すると言う一般的には非現実的と思われていることまでしていた嘉右衛門は並外れたバランス感覚を備えていたのかも知れない。
現代の科学では葉っぱ一枚、草一本造れない。科学が万能ならばこれらは造れるはずである。世の中は解明されていない事だらけだ。
そう思うと占いや予言も100%信じるのは危険が伴うが、100%信じないと言うのも得策ではないように思う。
肯定も否定もせずに柔軟に受け止め嘉右衛門のようなバランス感覚は身につけておきたいところだ。
さて、嘉右衛門の残したものは他にもある。
その一つがガス灯だ。
嘉右衛門は神奈川県庁からガス灯を造るよう依頼され1872年(明治5年)に「日本社中」を立上げガス会社建設の権利を得てフランス人技師を招きガス工場(横浜瓦斯会社)を建設した。
ここで製造されたガス灯十数基が大江橋から馬車道・本町通りまでの間に並べられ同年の旧暦9月29日(新暦10月31日)に一斉に火が灯された。ちなみに10月31日のガス記念日はこれに由来する。
日本で造られた西洋式のガス灯が灯されたのはこれが最初である。未来への道標となる光が灯されたわけだ。まさに文明開化である。
馬車道には当時の型をモデルとしたガス灯が復元設置されている。
ノスタルジックな光を放つガス灯は明治時代の情景を想像させてくれる。
↑横浜関内ホールの壁面にある初めてのガス灯復元を記念したレリーフ。明治時代の馬車道の風景が描写されている。
現在、馬車道通りには約80基のガス灯が設定されており中には東京ガスから寄贈されたイギリスからやって来たガス灯も含まれている。
↑イギリスからやって来たガス灯
ところで、ここにあるガス灯は「ガス灯風」に復元された電気の街灯ではなく、実際にガスを燃やしている 「ガス灯」だそうだ。
明治時代にガス灯が利用され始めた頃、石油ランプよりもガス灯の方が火災予防上安全であるとされていたようだ。
安政の大地震では地震に付き物の火災も発生している。その地震を非科学的な占いを使って予言した高島嘉右衛門は火災に強い現実的な技術によってガス灯の普及を試みた。そして目まぐるしく変化する現代おいてもその光は復元され未来に向かって輝き続けている。