山間の少し開けた平地に周りの景色と調和した趣のある街並みが形成されています。
但馬の小京都と呼ばれる出石(いずし:兵庫県豊岡市)は重要伝統的建造物群保存地区に指定され美しい景観を保っています。
その出石の町を山裾の少し高い位置から見守る出石城は明治維新によって廃藩置県となるまで出石藩の領主である仙石氏の居城でした。
↑出石城
↑出石城からの眺め
江戸時代後期、仙石氏は財政が逼迫していた出石藩の改革を推し進めるなか同族内で意見を二分します。
それが発端となり一族はもとより藩主や家臣までを巻込み内紛を繰り広げて行きます。
泥沼化した状態を抑える為、最終的には第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)も関与し事を収めますが結果的に出石藩の知行は5万8千石から3万石へと減封になりました。
この騒動は仙石騒動とよばれ黒田騒動、加賀騒動もしくは伊達騒動と並び「三大お家騒動」の一つに数えられています。
現代においても会社の継承者を巡ったりして騒動は起きますから昔も今も変わらないと言う事ですね(^^;
↑出石家老屋敷:仙石騒動の中心人物、仙石左京(せんごくさきょう)の屋敷があった場所。
当時は出石の城下町を騒がせたであろう仙石氏ではありますが現在の出石の町へ観光客を引き寄せる物を残しています。
それは「出石皿そば」です。
出石には50軒近くのそば屋さんが店を構えていますが出石にそばを持ち込んだのが仙石氏です。
信濃の上田藩第3第当主の仙石政明(せんごくまさあき)が出石藩に国替えとなった際に信州そばの職人を連れて来た事が始まりとされています。
小皿に分けられたそばがテーブルの上に並ぶ様はどことなく洒落っ気があり情緒的でもありますね。
現在のようなスタイルが確立されたのは昭和30年代頃だそうですが、小皿に分けて乗せる形式は幕末に屋台で持ち出す時に持ち運びが便利な小皿にそばを盛って提供したことが始まりとされています。
幕末と言えば幕末に活躍した桂小五郎(かつらこごろう)のちの木戸孝允(きどたかよし)も出石皿そばを食したかも知れません。
桂小五郎は修羅場となった時にいつもその場から逃げ出したことから「逃げの小五郎」と呼ばれていました。
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん:1864年)で幕府側から追われる身となった桂小五郎は危険な京都を逃れ出石の町に潜伏しました。
↑桂小五郎居住跡:偶然にも隣にそば屋さんがありますね(^^)
出石藩はお家騒動で3万石の減封を受けた為、幕府に対して良い印象を持っていなかったと言う事も桂小五郎がこの地を潜伏先として選んだ理由の1つとも言われています。
桂小五郎は出石に8ヶ月間の潜伏期間を経た後、日本を明治維新へと導き大久保利通、西郷隆盛と並び「維新三傑」と称されるようになりました。
出石の町が桂小五郎にとって起死回生の土地だったわけですね。
明治維新により武士の世も終わりを迎えますが出石藩も当然ながらその流れに飲み込まれます。
出石藩の最後の当主・仙石政固(せんごくまさかた)が1871年(明治4年)に廃藩置県により知藩事を免官されこれによって出石藩は消滅しました。
その同じ年に現在の出石のシンボルとも言える辰鼓楼(しんころう)が完成しています。
↑辰鼓楼
辰鼓楼は辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣として建てられたものですが1881年(明治14年)に現在の姿の時計台となりました。建物から独立した時計台としては日本最古とされています。
出石藩が消滅するとそれに呼応するかのように太鼓を叩く楼閣から時計台へと変わり新時代の時を刻み始めたと言う事ですね。
まさに出石のシンボルと言えるでしょう。
新時代に入ってからも仙石氏は城下町に名残をとどめています。
1931年(明治34年)に町の娯楽施設として開業した芝居小屋は仙石氏の家紋「永楽銭(えいらくせん)」にちなみ名称を「永楽館(えいらくかん)」と命名されています。
↑永楽館
永楽館は移築されずに現地に現存する劇場建築としては日本最古とされ今も現役で営業しています。
こうして見ると仙石氏は幕末から明治にかけて現在の出石の観光名所を創り上げるのに一役買っていると言えそうですね。
仙石騒動はマイナス面ですが時を超えてプラス面が浮き出て来ることもあると言うことですね。
出石の町を訪れて仙石氏のプラス面を満喫しましょう!