松岡城址を見守る松源寺の歴史的役割と高森町の特産品

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木曽山脈と赤石山脈の間に広がる伊那谷盆地(いなだにぼんち)。

その盆地を流れる天竜川は長い年月を経て河岸段丘(かがんだんきゅう)を形成しました。

長野県の南部に位置する高森町はその河岸段丘の上に広がる町です。↑高森町

高森町一帯は平安時代末期から江戸時代に入る直前の1588年まで松岡氏によって支配されていました。

高森町の東南部にはその松岡氏が南北朝時代に築いた松岡城があります。↑松岡城

河岸段丘は、段丘面(だんきゅうめん)と呼ばれる平坦な部分と、段丘崖(だんきゅうがい)と呼ばれる急な崖が交互に現れる階段状の地形です。

松岡城は段丘面が舌状に伸びた突端にある為、その両側及び先端方向は段丘崖によって急峻な傾斜地に囲まれています。そこに空堀や土塁が加えられている為、防備に優れた城塞だったと言う事は容易に想像出来るでしょう。↑松岡城からの眺め↑松岡城の空堀

さて、現在の松岡城に建物は無く城址のみとなっていますが、城址を見守るように佇むお寺があります。

松源寺(しょうげんじ)です。

↑松源寺

この松源寺の歴史を見ると松岡氏が遠州(静岡県西部)の井伊谷(いいのや)を発祥地とする井伊氏と深く関わっている事を知ることが出来ます。

どのような関わりなのでしょうか?

松源寺は松岡氏の菩提寺として松岡城12代城主の松岡貞正(まつおかさだまさ)によって建てられ、初代住職は貞正の実弟である文叔瑞郁禅師(ぶんしゅくずいいくぜんじ)でした。

この文叔瑞郁禅師は後に井伊氏の菩提寺となる龍潭寺(りょうたんじ)の前身である自浄院(じじょういん)に院主として迎えられています。

そして、文叔瑞郁禅師の弟子である黙宗瑞淵禅師(もくじゅうずいえんぜんじ)が龍潭寺の初代住職になったのです。

この縁により、松源寺は今川氏に命を狙われた、井伊氏の亀之丞(かめのじょう)と言う1人の少年を10年余り匿いました。

亀之丞は井伊谷に戻り、名を改め井伊直親(いいなおちか)として井伊氏19代当主となりました。ところが残念な事に結局、今川氏に殺害されてしまいます。

しかし、直親が残した嫡男は徳川家康に仕え徳川四天王の1人に数えられる事になります。

井伊直政(いいなおまさ)です!

直政以降、井伊氏は徳川幕府の譜代大名として明治維新に至るまでその地位を維持しました。

松源寺が直親を匿わなければ井伊氏の繁栄はなかったと言う事になりますから松源寺は重要な役割を担ったと言う事ですね。

さて、以上のように井伊氏と繋がなりの深い松岡氏ですが、松岡氏が治めた高森町を代表する特産品の一つに目を向けましょう。

それは市田柿です。

その歴史は古く、鎌倉時代にはこの地方で既に栽培・加工が行われていたと推測されています。

市田柿と言う名称は高森町が市田村と山吹村が合併して出来た町であり、市田柿は市田村で盛んに栽培されて来た事に由来します。↑市田柿発祥の里の碑

付け加えると、その名称は果実の品種の名称であると共に、その果実から作られた干し柿も市田柿の名前が付けられブランド化されています。

↑市田柿

長野県は全国でダントツ一位の干し柿の生産量(平成29年産の特産果樹生産動態等調査)を誇り、その中でも市田柿がほぼ100%を占めていると言いますから高森町は日本一の干し柿の生産地なのです!

高森町は古い歴史と素晴らしい特産品を持った町ですね。

最後に少しだけ余談です。

高森町の松岡氏と縁の深い井伊氏が拠点を置いた遠州には森町(もりまち)と言う町があります。

その森町は次郎柿 (じろうがき)発祥の地です。

また、高森町は「伊那谷」と言う盆地にあり、井伊氏の発祥の地は「井伊谷」です。

町と町。市田と次郎と井伊谷

なんだか共通点が多いすね。

袖振り合うも多生の縁

「道を歩いていて見知らぬ人とすれ違うのも、前世からの因縁による。行きずりの人との出会いやことばを交わすことも単なる偶然ではなく、縁があって起こるものである」と言う意味です。

松岡氏と井伊氏の共通点は単なる偶然ではないのかもしれません。

人との出会いは大切にしたいものですね。

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