下関の櫻山神社に集う幕末の志士達の魂

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整然と並ぶ400本余りの石柱。

普通では見る事の出来ない珍しい光景。この圧巻の光景は山口県下関市の櫻山神社(さくらやまじんじゃ)の境内にある招魂場で見る事が出来ます。

↑櫻山神社_社殿

招魂社(しょうこんしゃ)とは明治維新前後以降から国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社の事を指し、櫻山神社は日本初の招魂社です。↑櫻山招魂社の石碑(鳥居の右側)

では、なぜ下関の地にあるのでしょうか?

尊王攘夷を叫ぶ長州藩は幕末の1863年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国と武力衝突を起こします。いわゆる下関戦争(しものせきせんそう)です。

同年、この時の戦没者の霊を慰めると共に、今後の戦いに臨むに当たって我々はいつ死ぬか分からない、自分たちの生墳(生前にあらかじめ建てておく墓)が必要であると発議した高杉晋作奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置。翌年の1864年8月に社殿が完成しました。↑高杉東行狂生書の碑↑高杉東行狂生書の碑(碑文訳)

桜山神社の境内は奇兵隊の調練場跡であり、招魂場となって以降、桜を植えた事から桜山と呼ばれるようになったそうです。

以上が下関に招魂社がある理由であり、櫻山神社に合祀されている志士全員が御祭神となっています。

御祭神の詳細は以下の通りです。

・吉田松陰 1柱

・高杉晋作、久坂玄瑞(義助)、入江九一、吉田稔麿、河上弥市らの5柱

・白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱

・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱

・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱

計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱)

吉田松陰の石柱は最前列中央に位置し一段高くなっていますが、その左右に並ぶ高杉晋作と久坂玄瑞を始め身分の低い者達の石柱まで全てが平等に立ち並んでいます。江戸時代の封建制の世の中から平等の世の中に変えようとした長州藩士たちの気持ちが表れた結果なのかもしれません。

少し余談です。

坂本龍馬が亡くなった後、下関に滞在していた妻のお龍は招魂場運営のために設けられた「あけぼの」と言う茶屋で一時を過ごしたそうです。

「武士(もののふ)の かばねはこゝに桜山 花は散れども 名こそ止(とど)むれ」

お龍の謳です。

龍馬と長州藩士を重ね合わせて詠んだのかもしれません。↑龍馬記念碑

ところで招魂とは「死者の霊魂を招き呼び、肉体に鎮めること。転じて、死者の霊を招いてまつること。死者をとむらうこと」です。

ではとは一体何なのでしょうか?

辞書で調べると「生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた」とあります。

このような定義からすると魂とは実体の無いものとなりますが魂には重さがあり「人は死ぬと、その体は21グラムだけ減る」という話をご存じでしょうか?

これは1901年にマサチューセッツ州の医師ダンカン・マクドゥーガルが行なった研究発表によるものです。

彼は人の体には魂が宿っており、ある程度の重量を持つはずだとの説を唱え死期が近い被験者の死亡前後の体重を計測することで証明しようとしました。

その結果「人は死ぬと、その体は21グラムだけ減る」と言う結論に達したと言う事です。

興味深い話ですね。

魂が存在するかしないか、魂に本当に重さがあるのか、の答えはいずれ導き出される日が訪れるでしょう。そして、もし魂が存在するなら桜山神社には今も幕末の志士が集っているかもしれません。

招魂社の発想は、桜山神社の招魂場の設立後全国に広がりました。 その一つに東京招魂社があります。東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称されました。また地方の主な招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称されました。

現在、靖国神社も護国神社も国家のために殉難した人の英霊を祀るための神社とされています。

護国神社は原則各県に建立されています。しかし一般的な神社と異なり足を運ぶ人は少ないのではないでしょうか。

精魂を傾ける

一つの物事に全力で取り組むことを言います。

護国神社に英霊として祀られている人達はより良い未来にする為に全力で戦いに挑んだ人達です。

機会があれば櫻山神社及び皆さんの地元の護国神社に足を運んで頂ければと思います。

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