三方向を山に囲まれ、北側に千曲川が流れる緑と水の町、長野県松代町(まつしろちょう)。
その松代町の中心的存在の一つに松代城があります。↑松代城_太鼓門
この松代城を語る時、大きくわけて二つの時代に分ける事が出来ます。
一つが戦国時代、川中島の戦いの舞台としての松代城。そしてもう一つが江戸時代、松代藩・真田氏の居城としての松代城です。
松代城はかつて海津城(かいづじょう)あるいは貝津城(かいづじょう)と呼ばれていました。↑松代城_海津城址之碑と北不明門
築城時期は不明ですが海津城の名を文献で確認出来る最も古いものが1560年と言う事ですので、その頃には既に存在していたという事になります。
海津城は当時の千曲川の流れを外堀とする天然の要塞であり武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島の戦いで最大の激戦であった第4次合戦(1561年)で武田軍の最前線基地となりました。↑松代城_戌亥櫓台
ところで、海に近いわけでも無いのに、なぜ海津城と呼ばれていたでしょうか?
その語源は諸説あるようですがその一説として大昔この一帯が大きな湖だったからと言うものがあります。また、津は港の事を指します。かつてここに千曲川の川船の港があったからと言われています。
海津城は他に茅津城(かやつじょう)と言う呼び名もありますが、その理由は茅の生い茂った地であったと言う一説があるそうです。
茅はやや湿った環境で群生するそうですから海津・貝津・茅津、いずれをとっても水に関連したお城と言う事ですね。↑松代城_戌亥櫓台からの眺め
海津城の時代は正に戦国時代の真っ只中だったわけですが、松代藩・真田氏の居城としての松代城の時代は、戦国時代も終わり江戸時代と言う平和な時代のお城だったと言えます。
真田家の城といえば上田城のイメージが強いのですが、上田城を居城としていた年数は18年間(1583〜1601年)。一方、松代城を居城としていた年数は250年間(1622〜1872年)と、圧倒的に松代城の方が長い期間を占めていた事になります。
関ヶ原の戦い(1600年)の際に、東軍(徳川家康側)・西軍(石田三成側)のどちらが勝っても真田氏の存続が出来るようにと、兄の信之(さなだのぶゆき)は東軍に付き、弟の信繁(のぶしげ)は父の昌幸(まさゆき)と共に西軍に付きました。
結果、東軍が勝ったわけですが、その後信之が松代藩初代藩主となり、松代城を居城として真田氏を250年間守り抜く礎を築きました。↑松代城_戌亥櫓台からの眺め
さて、松代城の大きな二つの時代について説明させて頂きましたが、実は「川中島の戦いの舞台としての松代城」と「松代藩・真田氏の居城としての松代城」をつなぐ時代に海津城から松代城へと改名される理由が隠されています。
では、それを探って見ましょう。
甲斐(山梨県)を中心に、信濃(長野県)、上野(群馬県)で権勢を振るっていた武田家ですが1582年に滅亡します。
それにより海津城は織田氏家臣の森長可(もりながよし)の居城となり、その後、田丸直昌(たまるなおまさ)へと城主を変え、更に1600年に長可の弟である森忠政(もりただまさ)が城主となります。
その時、忠政が城の名前を待城(まつしろ)へと改名しました。↑松代城_北不明門
なぜ改名したのでしょうか?
それには諸説あるようですが、その一つが以下の説です。
長可が城主だった時、主君の織田信長が明智光秀に討たれた為、海津城から撤退しようとした際に川中島の百姓達が長可を追いかけ討とうとしましたが、長可はこれを追い返して落ち延びたそうです。
その為、弟の忠政が海津城に入城した際に、
「森家に遺恨のある者が川中島の百姓にはいるだろう。彼らはいずれ私が来るのを待っていた事だろう。であるならば、それをこの地の名前にしてやろう」と「待城(まつしろ)」と命名したそうです。
更に、忠政は兄の仇として、長可を討とうとした川中島の百姓ら300余りの人々を磔(はりつけ)にしたと言う事です。
一方で、忠政統治の下では過去の遺恨を残さずに上手くやっていけるようにと、森家と百姓がお互いに話し合って「磔ごっこ」をしただけで殺さなかったという逸話も伝わっているようです。
後者であった事を願いたいですね(^^;↑松代城_本丸跡
その後、忠政は津山藩(岡山県)へと移った為、代わって松平忠輝(まつだいらただでる)が城主となります。
松平氏が城主時代に待城を不吉として松平の一字を採って松城(まつしろ)と改名しました。
松平氏の後は酒井氏が城主となり、1622年に真田信之が入城します。
城主の入れ替わりによって名前を変えて来た松代城ですが松城から松代城となったのは1711年の幕命によっての事です。
以上が松代城の名前の変遷から見た松代城の簡単な歴史の説明となります。
海津城・貝津城・茅津城→待城→松城→松代城
と言う流れになるわけですが、少々親父ギャグが入っていますね(笑)↑松代城_二の丸南門
今回は改名の変遷を辿る事で歴史の一部を見たわけですが、改名に限らず物事が変化する際には何らかの理由があるはずです。過去の理由の変化を探る事で何らかの役に立つ事もあると思います。
松代城に訪問した際はそんな事を頭の片隅にでも入れながら見学して見て下さい。