象山神社で佐久間象山の雅号について触れてみる

このエントリーをはてなブックマークに追加

動乱の幕末。

尊王攘夷派、開国派などの思想が行き交う中で互いに影響力の強い人物は命の危険に晒された。

1864年7月11日。1人の男が暗殺された。

暗殺されたのは松代藩士で思想家の佐久間象山(さくましょうざん)だ。

暗殺したのは幕末の四大人斬りの一人とされる尊皇攘夷派で熊本藩士の河上彦斎(かわかみげんさい)である。

彼は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったと言う。

象山は今、出身地である長野市松代町の象山神社(ぞうざんじんじゃ)に主祭神として祀られている。象山神社は旧佐久間象山邸があった地に建立されている。

↑象山神社↑象山神社_佐久間象山宅跡↑象山神社_「象山先生誕生地」の碑

暗殺した事を後悔させてしまい、神にまでなった象山。

知る人ぞ知る人物ではあるが、同じ幕末に活躍した思想家の吉田松陰(よしだしょういん)と比較すると知名度は低いだろう。

ところが、その吉田松陰は象山の門弟である。

象山には多くの門弟がいた。小林虎三郎(こばやしとらさぶろ)、勝海舟(かつかいしゅう)、河井継之助(かわいつぎのすけ)、橋本左内(はしもとさない)、坂本龍馬(さかもとりょうま)、などなど、他にも多数の日本を担う人材を輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。

多くの門弟の中でも特に、偉才を放つ吉田松陰と、「米百俵」の逸話で知られる小林虎三郎に期待するところが大きかったそうだ。

松陰の門弟には高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山縣有朋(やまがたありとも)らがいた。日本人なら一度は耳にした事があるだろう人物ばかりだ。

松陰の門弟と比較すると知名度は低いが虎三郎の門弟には日本最初の医学博士・小金井良精(こがねいよしきよ)、吉田内閣の法相・小原直(おはらなおし)、東京帝国大学総長・小野塚喜平次(おのづかきへいじ)らがいた。

松陰や虎三郎の門弟も含めて象山の門弟は現代の日本の礎を築き上げた人物ばかりである。↑象山神社_幕末の志士達の像

なぜそんな門弟を持つ事が出来たのか?

それは象山の天才的思想にある。

松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が老中兼任で海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢された。そして、アヘン戦争の報を受け海外情勢を研究する事で対外的危機にある事を知り衝撃を受け「海防八策(かいぼうはっさく)」を上書した。

ここに書かれた内容は概ね「国防の為には西洋式の大砲、並びに艦船を製造し、操作法を学び全国の要所に配備しなければならない」と言ったものだ。

海防八策が上書されたのは1842年の事だからペリー来航の11年も前である。

その頃はまだ尊王攘夷のスローガンが活発に掲げられる前の事であり、鎖国の状態の中で諸藩に分かれ、大型船や大砲の製造も許されていない状態である。

その中でこのような大胆で規格の外れた考えを打ち出した事は驚くべき事だ。

象山はこれを機にオランダ語を習得し西洋技術の摂取による産業開発と軍備充実を唱えた。

このような思想がやがて象山の門弟たちを幕末の志士や要人へと導いて行った。

また、一方で象山は技術者としての一面も持ち合わせている。

種々多様な文献をもとに電磁石、電気治療器、地震予知機、カメラ、ガラス、などの発明・開発に成功し、更には天然痘ウイルスに対する免疫確保のため牛痘種の導入も考えていたそうだ。

正に大先覚者である。

これだけの事を実践するこの人の頭の中はどうなっているのだろうかと思えてしまう。

そんな象山の残した思想や機器は象山神社の近くにある象山記念館(ぞうざんきねんかん)で垣間見る事が出来る。

↑象山記念館

話は変わるが象山と言う呼び名について触れたい。

象山は雅号(がごう)である。現代風に言えばペンネームと言ったところだ。

一般的には「しょうざん」と呼ばれているが象山神社、象山記念館の象山は「ぞうざん」と読まれる。

どちらが正しいのだろうか?

象山は松代の本誓寺(ほんせいじ)に三部経を奉納している。その際に奉納の趣旨を述べたペン書きの「添記」を残している。この添記の中に自分の雅号について説明しているそうだ。

反切(はんせつ)とは漢字の字音を表わすのに、他の漢字二字の音をもってする方法である。

象山は反切を用いて「若しそれ、後の人我名を呼ぶなば、まさに知るべし。象は所蔵の反にして、山は参なりと」と説明している。

「象は所蔵の反」とは、反切上字(所sho)の頭子音shと反切下字(蔵zou)の頭子音以外ouを組み合わせて音shouを表している。

つまり象山は「しょうざん」と言う読み方になる。

象山の雅号は松代にある禅宗の寺・象山恵明禅寺(ぞうざんえみょうぜんじ)に因んだとされる。象山は恵明禅寺の山号である。

であるならば「ぞうざん」が正しいのでは?となるが、象山は漢学者でもある為、漢音で読むと「しょうざん」となる為、やはり「しょうざん」が正しいのか?

いずれにしても、なぜ「ぞうざん」とも呼ばれるのか疑問である。

ここには少々複雑な事情が絡んで来る。↑恵明禅寺

通常、お寺の山号は自社の置かれている山の名前から持って来るのだが、恵明禅寺の開山の僧・木庵(もくあん)は自分が禅と最初に出会った支那泉州の「象山」から持って来たと伝えられている。

それに対し象山は恵明禅寺の裏山の名前から取った山号と勘違いしたようである。

この裏山は元々「城山(じょうやま)」或いは「竹山(たけやま)」と呼ばれていたらしいが象山は「この山は象に似ている山だから昔は象山と呼んでいた」として自分の勘違いを正当化したらしい。

その後、佐久間象山の名前が世に広まり名声が高まる中で地元の人達も象山先生が山の名前を「象山(ぞうざん)」と呼ぶならば、それが正しいとして定着して行ったのではと推測される。

つまり、象山は山の名前も変えてしまい、この事から自分の雅号も「ぞうざん」と思わせてしまったと言う事であろう。

「しょうざん」と「ぞうざん」どちらが本当に正しいのかは分からない。ただ地元の人が「ぞうざん」と呼ぶならばそれはそれで正しいのではないだろうか?↑象山神社_佐久間象山の像

象山は自信過剰で人を見下すようなところがあったと言う。

あるいは勝海舟や高杉晋作らは象山の事を「法螺吹き」と言っている。

数々の多大な業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのは自分の雅号の読み方でさえも人々を混乱させてしまう象山の思考方法とそこから来る自信がそうさせているのかもしれない。

人に理解されにくく自信過剰で法螺吹きとまで言われるくらいでなければ規格外れの発想は生まれないと言う事だろう。

そしてそのような規格外れの考えや志を持つ者が時代の流れを覆す事が出来ると言える。

象山神社で祈願すると規格外れの考えや志を持てるようになるかもしれない。

このエントリーをはてなブックマークに追加