大きな川の流れは時の流れと共に何かを生み出します。
新潟市で日本海に注ぐ日本で一番長い川、信濃川(しなのがわ)。
その呼称は新潟県域のものであり、長野県域では千曲川(ちくまがわ)と呼ばれています。
千曲川の大きな支流に犀川(さいがわ)があるのですが、この二つの川の語源は諸説あり、それぞれの一説には共に神様が関わっています。
千曲川の水源地域である長野県川上村には伝説が残されています。
大昔に高天原に住む神々の間で大きな戦いがあり、この時に流された血潮が川となり、一面隈なく流れた様子から「血隈川」と言うようになったと言うものです。
一方、犀川はその上流部に当たる安曇野の辺りにあった大きな湖の水を穂高見命(ほたかのみこと)が山を拆(さ)き、海に流した事から拆川(さきがわ)となり、それが訛って犀川(さいがわ)となったと言う伝説が残されています。
そしてこれら神々の伝説が残る二つの川の合流域で戦国時代に軍神とも言える2人の武将が一戦を交えています。
二つの川の合流域は現在「川中島(かわなかじま)」と呼ばれています。
もうお分かりですね。川中島と言えば「川中島の戦い」が有名ですね。そして2人の軍神とは、もちろん武田信玄と上杉謙信です。
川中島の戦いは、1553年から1564年にかけて、北信濃国(現在の長野県北部)の領有権をめぐり争った戦いです。
この領有権をめぐる戦いは5回に渡って行われ、5回の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した4回目の戦いが川中島で行なわれました。その事から5回の戦いを総称して川中島の戦いと呼んでいます。
第4次川中島の戦いの際に武田信玄が本陣を置いたとされる場所を川中島古戦場とし、八幡原史跡公園(はちまんぱらしせきこうえん:長野市)として整備されています。
八幡原史跡公園は両将一騎討ちの伝説を生んだ地でもあります。
その伝説とは
「手薄になった信玄の本陣に切り込んだ謙信が馬上から床几(しょうぎ)にかけている信玄めがけて三太刀斬りつけたが信玄は手にした軍配で受け止めた。
その時、信玄の家臣である原大隅(はらおおすみ)が槍で馬上の謙信を突いたがはずれ、謙信の鎧の肩にささった。
これを叩き落とそうとして馬の尻を叩いてしまった為、馬が立ち上がり、謙信は一目散に走り去った。信玄はこの時、腕に二箇所の傷をおい、後で軍配を調べてみると刀の傷が七つもあった」
と言うものです。↑武田信玄、上杉謙信直接対決の像↑三太刀七太刀之跡の碑↑執念の石:信玄を取り逃した原大隈がその無念さに傍にあった石を槍で突き通したと言われる。
川中島の戦いについての詳細は他に譲るとして、もう少し八幡原史跡公園を散策しましょう。↑逆槐(さかさえんじゅ):信玄の本陣に土塁を築く際、土留めに自生の槐を杭にしようとして、根を上にして打ち込んだと言われている。それが芽を出て、巨木になったという伝説がある。↑首塚
↑長野市立博物館:2階の常設展示室では、川中島の戦いに関する資料が展示されている。
↑八幡原史跡公園の風景
当時の戦いに想いを馳せることが出来たでしょうか?
さて、八幡原史跡公園の「八幡原」の語源についてです。
現在、川中島とよばれるこの地域は八幡原と呼ばれていました。
平安時代後期の武士、源顕清(みなもとのあききよ)がこの地を訪れた時、広大な原野に武運の神である八幡神を祀ったことから八幡原(はちまんばら)と名付けたそうです。
故に、第4次川中島の戦いを八幡原の戦いとも言います。
八幡原史跡公園は八幡社の境内が中心となっており、この一帯に上記で紹介した史跡が点在しています。↑八幡社
ところで、神様に関連する語源をもつ二つの川の合流域である八幡原(川中島)の語源も神様に関係していると言う事になります。面白いですね(^^)
さて、激しい戦いがあった川中島ですが、昭和の時代にこの地から特産品が生まれています。
川中島町の池田正元氏が昭和30年代に自園で桃の品種改良を進める中で発見された白桃です。この桃は「川中島白桃」と命名されています。
中国では桃は不老不死、長寿、繁栄、魔除けの木として好まれ、縁起が良いとされています。 日本でも桃の花は邪気を払うとされ、桃の節句が行われています。
桃が川中島の特産品となったのは必然だったのかもしれませんね。
大きな異なる川の流れは次に何を生み出すのでしょう?
川の流れに限らず、二つの異なるものが交わると新たな何かが生まれます。身の回りにあるものを掛け合わせる事で新たなものを見つけてみてはいかがでしょうか?