激戦!両軍の凄まじい攻防!
「姉川の戦い」(滋賀県長浜市)はあまりにも激しい戦いの為、両軍の決戦地となった場所は川が血で真っ赤に染まったと言われ、血原(ちはら)と言う地名が残されている程です。
織田信長の妹お市を妻に迎えた浅井長政(あざいながまさ)は織田家と同盟を結んでいました。しかし信長が長政と親交の深かった越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めた為、長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲いました(金ヶ崎の戦い)。
この報復戦となったのが姉川の戦いです。
元亀元年(1570年)6月、浅井・朝倉軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人が、姉川を挟んで軍を敷き、徳川方の攻撃によりその決戦の火ぶたは切られました。そして両軍合わせて2,500人以上の戦死者が出る程の激戦の末、織田・徳川軍が勝利しました。
さて、ここで一曲、「君が代は~ 千代に~ 八千代に~ さざれ石の~ ・・・・・」
君が代に出て来る「さざれ石」。どんな石でしょう?調べて見ると『もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す』とありました。
かつて「姉川の戦い」のあった姉川流域は、このさざれ石の発見の地だそうです。
君が代に歌われるさざれ石の出所を調べて見ると様々な説があるようです。その内の一つ、近江の民話がまとめられた「伊吹町の民話」「近江むかし話」には以下のような昔話が収められているようです。
『(前略)・・・殊原左衛門という男が、伊吹山系の川できれいなさざれ石を見つけ、歌を詠みました。それは、わが君は千代に八千代に さざれ石のいわをとなりてこけのむすまでというもので、この一首を添えてさざれ石を朝廷に献上しました。都では、この石のことが評判になり、左衛門は褒美をもらい、石位左衛門と名乗るようになったそうです。国歌の「君が代」はこの歌がもとになりました』
君が代の歌詞の起源には興味をそそられますね。
話はかなり横道にそれますが、君が代に関わる興味をそそる話しをもう一つ。君が代の発音はヘブライ語に似ていると言う事です、更にそれを訳すと。。。。。
[日本語]
君が代は
千代に
八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔の生すまで
[ヘブライ語]
クムガヨワ
テヨニ
ヤ・チヨニ
サッ・サリード
イワ・オト・ナリァタ
コ(ル)カノ・ムーシュマッテ
[ヘブライ語の意味]
立ち上がる
シオンの民
神・選民
喜べ・人類を救う、残りの民として
神・予言・成就する
全ての場所・語られる・鳴り響
[歌詞らしくすると]
立ち上がれ、神を讃えよ!
神の選民 シオンの民!
選民として 喜べ!
人類に救いが訪れ!
神の予言が成就する!
全地あまねく 宣べ伝えよ!
なんとも不思議な一致ですね。調べれば更に色々なミステリーが隠されているようですが、今回はここまでにしておきます。
これをどう感じるかは人それぞれと思いますが、こんなことありえないと否定してしまった時点でその先を見る事は出来ません。肯定も否定もせずに視野を広げて見る事により見識は広がりを見せると思います。
今回も「姉川の戦い」から思わぬ広がりを見る事が出来ました(^^)
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