日本のお城の中でも数少ない現存する建築物が多く残されている南海の名城・高知城!
どんな建築物が残っているのでしょうか?
①現存する12天守(弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)の内の一つ
③現存する4つの本丸御殿(二条城、川越城、掛川城、高知城)の内の一つ
②現存する9つの大手門(大阪城、小諸城、名古屋城、二条城(北門)、二条城(東門)、弘前城、福岡城、丸亀城、高知城)の内の一つ
そしてこれらを組み合わせると…..
現存する天守・本丸御殿・大手門が全て残っているのは高知城だけと言う事になります!
組み合わせによりオリジナリティが増すと言う事ですね。自分の持っている好きな事や得意な事を組み合わせる事によってオンリーワンの何かが持てるかも知れませんね。
また、現存天守と大手門が一枚の写真にきちんと入るお城はここだけだそうです。訪れた際は忘れずに撮りましょう♪
ところで、大手門(おおてもん)は追手門(おうてもん)とも呼び、高知城では追手門と表記しています。追手門の名前はどこから来ているのでしょうか?
城の正門である大手門に対して裏門を搦手門(からめてもん)と呼びます。ここから迎撃用の兵が出入りしていた為、このような呼び名がついたそうです。そしてこの搦手門から出た兵の攻撃により敵が敗走した際に、それを追撃をする兵が正面の門から出城した為、追手門と呼ばれたそうです。
つまり、もともと追手門と呼ばれていたものが転じて大手門になったと言う事になります。
それでは追手門をくぐり抜け天守へ向かいましょう。高知城の石垣は高く立派です。その上にそびえたつ天守には圧倒されます。歴史好きでなくてもその容姿には魅了される事でしょう。
そんな高知城は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方に味方し土佐一国を与えられた山内一豊(やまうちかずとよ)によって慶長16年(1611年)に築城されました。
しかし、約120年後の享保(きょうほう)12年(1727年)の大火で追手門以外の殆んどが焼失してしまいます。現在の天守及び本丸御殿は寛廷(かんえん)2年(1749年)に再建されたものです。
そして大火で焼失してから約120年後、高知城は幕末の時代へ突入して行きます。
幕末では山内家が当主を勤める土佐藩は雄藩の一つとして挙げられ、四賢侯(しけんこう)の1人として数えられた15代藩主山内容堂(やまうちようどう)は大政奉還の建白を推進した人物としても知られ、高知城を拠点に活躍します。
ちなみに、幕末の始まりを1850年代として120年後の1970年前頃に高知城に何が有ったか調べてみました。10年の誤差はありますが昭和34年(1959年)に天守閣を始め各建造物の修復工事が完了し、国の史跡に指定されています。
少し強引ではありますが高知城にとっては120年が大きな節目なのかもしれませんね(^^)
次の120年後は2080~2090年頃です。高知城でどんな事が起きるんでしょうかね?