「国崩し」が使われた臼杵城に隠されている物

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臼杵城

「国崩し」、、、これ何か分かりますか?

戦国武将・大友宗麟(おおともそうりん)は豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)を拠点に勢力を拡大し最盛期には九州6ヶ国に版図を拡げました。

しかし、天正6年(1578年)耳川の戦い(みみかわのたたかい)で薩摩の島津氏に敗れてから、その権勢に陰りが見え始めます。

そして9年後の天正14年(1586年)に戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)で島津軍に押され豊後府内(ふない:現在の大分市中心部)への侵攻を許してしまいます。

この時、臼杵城(うすきじょう:大分県臼杵市)に籠城していた宗麟は「国崩し」を使用して城を守りました。

「国崩し」とはフランキ砲と呼ばれる大砲の事です!

「国崩し」なんて、なんとも凄い名前ですね。でも確かに大砲は国を崩すほどの威力をもっていますから間違った名前ではありませんね。

大砲は宗麟が日本で初めてポルトガルの宣教師より入手し最初に使用したとされています。

さて、臼杵城を守った後の宗麟についてもう少し触れてみます。

天正15年(1587年)になると豊臣軍10万が九州に入り、島津軍を撃破して行きます。豊臣の傘下となっていた大友氏はこれにより形勢を逆転して行きますが、島津氏の降伏直前に宗麟はこの世を去ってしまいます。

世を去った宗麟ですが権勢を振るった最盛期の頃に南蛮貿易によって巨万の富を得ており、その富を埋蔵したと言う伝説が残っています!

埋蔵金は四つに分けて埋葬されたそうです。

どこに埋葬されたのでしょうか?

その一つは別府市の四極(しはつ)城跡で発掘され、一つは大分市の府内城跡で城の手入れ中に発見されているようです。あと二つですが、一つは四極城跡にもう一つあり、そして残りの一つが臼杵城にあるのではないかと言う事です。

臼杵城は当時断崖絶壁で四方を海に囲まれた珍しい城だったそうです。その為、埋蔵金は海中に没したと見られているようです。

埋蔵金伝説は日本各地に残されていますが、宗麟の埋蔵金伝説について一つ注目したい点があります。

各地に残る埋蔵金の伝説はその殆んどが伝説の域を脱してはいません。しかし宗麟の埋蔵金は四つのうち二つは発掘されていると言う事です。つまり、臼杵城の周辺には埋蔵金が本当に眠っている可能性が高いと言う事になります!

かつては海に囲まれた臼杵城は地形・地盤がかなり変化してしまって周りは陸続きとなっています。配管などの地中工事の際に埋蔵金が発見されるかもしれませんね!

もし埋蔵金が発見された場合、有意義な使い方をして欲しいものです。

お金は使い方によって人の役に立つ事もあれば、人を傷つける事もあります。人の役に立つ使い方をするよう心がけたいものですね。

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