白い波は青い海との境界線を引き立たせ弓状に広がる砂浜の風景をより一層美しいものにしている。
その砂浜は高知に残る民謡「よさこい節」の一節に「月の名所は桂浜」と謡われ、古来より月の名所として知られている。
一方、桂浜に面する土佐湾ではかつて鯨漁が盛んに行われ、こちらも「よさこい節」の一節に謡われている。今でも様々なクジラの仲間が生息しホエールウォッチングの出来る海として人気を集めているスポットだ。
桂浜(高知県高知市)と言えば坂本龍馬の銅像でも有名である。
龍馬はその視線の先に広がる海を見て何を思っているのか?
龍馬が生きた時代は欧米列強との間に文明の大きな隔たりがあった。その差を埋めるべく太平洋の向こう側にある大国アメリカに思いを馳せているのだろうか?
アメリカで進んだ文明を学び日本の発展に寄与した土佐出身の人物がいる。ジョン万次郎だ。
土佐に漁師の次男として生まれた万次郎は14歳の頃、手伝いで漁に出ている最中に嵐に遭遇。伊豆諸島の無人島・鳥島(とりしま)に漂着し、その後アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡る事となる。
ところで万次郎が島に漂着した頃より遡る事、約55年前の1785年(天明5年)に同じく鳥島に漂着した野村長平(のむらちょうへい)と言う人物がいる。
長平も土佐出身であるが、同じ土佐出身の万次郎とは全く異なった道を歩んでいる。
今回は、この野村長平にスポットを当ててみたい。
長平は生活に必要な道具は流されてしまい何もないまま島に漂着。島に大きな木は生息しておらず川や池などの水源もない火山の島。
万次郎は漂着した鳥島で143日後に島から脱出しているが、長平は実に12年間も島で生活した後、故郷へ帰還している。
どのようにして日本本土へ帰還する事が出来たのか?
廻船問屋の船乗りだった長平は他の船乗り2名と一緒に島に漂着。しかし2名は死亡してしまい1人での暮らしを余儀なくされる。
鳥島はアホウ鳥の群生地の為、主な食糧はアホウ鳥の肉と卵。渡り鳥のアホウ鳥は春から秋まで不在期になる為、その間は干し肉にして保存。その他、少量の海産物を食糧として加え、水は卵の殻に雨水を蓄えて確保する。
ろくな食料もない中、孤独と闘って生きて行かなければならなかった事は想像を絶する。
漂着から約3年後の1788年(天明8年)に大阪船の船乗りが漂着。その2年後の1790年(寛政2年)には薩摩船の船乗りが島に漂着し、人数は10数名となった。
彼らは長平から島での生活方法を学び、更に持ってきた大工道具などにより生活の質を向上させて行く。
しかしながら、これで島から抜け出す事が出来るようになったわけではない。長平が島へ漂着してから一隻の船影も見ていないのである。
彼らは島からの脱出を試みるようになる。
釘に関しては炉を構えて碇(いかり)や、古釘を集めて溶かして作成。帆は自分達の来ている衣服を利用。船の材料は島に漂着する難破船の木材を数年かけて集め継ぎはぎだらけの30石船を完成させる。
いよいよ島からの脱出である!
数日間の航海の後、八丈島に辿り着く事に成功。
長平は1798年(寛政10年)故郷の土佐に13年ぶりに帰郷した。
その後、土佐藩から野村姓を名乗ることを許さる。妻子にも恵まれ、60年の生涯を全うしてこの世を去っている。
桂浜の前に拡がる土佐の海の遥か彼方の無人島で12年もの間生活し故郷へ帰還した長平。
彼は何も無い状況におかれても諦めない強い意志が目的を達成させる一つの要素になり得る事を教えてくれている。
何事も諦めることなく最後までやり抜く事の大切さを改めて思い起こしてみては如何だろうか。
【English WEB site】
http://japan-history-travel.net/?p=4740