中津城の築城で石垣を上手く活用した黒田官兵衛

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中津城

さて問題です。

下の写真を見て頂くとy状に目地が通っているのが分かると思います。右側と左側、年代的にどちらの石垣が新しく造られたものでしょうか?

01 中津城

答えは左側です。

でも一見すると加工された石が使われた右側の石垣の方が新しいと思いますよね。

中津城(なかつじょう:大分県中津市)は1588年(天正16年)黒田官兵衛(くろだかんべえ)によって築城されました。その後、1600年(慶長5年)の転封により代わりに入城した細川忠興(ほそかわただおき)によって改修されています。

右側は黒田時代の石垣。左側は細川時代の石垣となります。

黒田時代の石垣の主流は野面積み(のづらづみ)と呼ばれる自然石をそのまま積み上げる石垣だったはず。どうして加工された石が使われたのでしょうか?

官兵衛は中津城の横を流れる高瀬川(現中津川)の上流にある7世紀の遺跡「唐原(とうばる)山城」の石を持ち出し使用したと言うことです。

02 中津川(旧高瀬川)

03 中津川(旧高瀬川)

↑中津川(旧高瀬川)

となると黒田時代より遥か昔に造られた唐原山城に使用された石垣はなに?と言うことになりますよね。

唐原山城は九州から瀬戸内地方にみられる石垣で区画された神籠石式山城(こうごいししきやましろ)の一つとされ「日本書紀」「続日本紀」などの歴史書にも記載が無く、遺構でしかその存在を確認できない山城です。

以前、桃太郎伝説の残る「鬼ノ城(きのじょう:岡山県総社市)」の記事でも書きましたが神籠石式山城は謎の古代遺跡です。

話はそれてしまいましたが、知恵者の官兵衛は効率と速さを求めて古代の石垣を利用したと言うことなのでしょう。

04 中津城

さて、古代石垣の上に城を建てた官兵衛ですが、もう一つ全く別の石垣の上で成果を上げています。

関ヶ原の戦いが始まろうとしている2日前の1600年(慶長5年)9月13日。官兵衛は西軍(豊臣方)についた大友義統(おおともよしむね)の軍と激突し勝利を収めます。別府(大分県)の扇状地を舞台に行われたこの戦を「石垣原(いしがきばる)の戦い」と言います。

官兵衛の勝利が九州で味方の少なかった東軍(徳川方)の優位を決定づけたこと。また、関ヶ原の戦いで嫡男・長政(ながまさ)の功績が評価されたことにより黒田家は徳川家康より福岡52万3,000石の大領を与えられることになりました。

偶然ですけど官兵衛は石垣には縁があったと言うことですね(^^)

05 中津城

中津城は黒田家の転封後、先述した細川家が城主となります。その後、小笠原家から奥平家へと続き明治に至るまで中津の繁栄を見続けました。

06 中津城_奥平神社

↑奥平神社

また、中津城は今治城(愛媛県)、高松城(香川県)と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。水に囲まれたお城の基礎は強固でなければなりません。

07 中津城

石垣は城の基礎となるもの。建物に限らず勉強でもスポーツでも基礎をしっかりと身に着ける事が必要です。中津城に訪れたら基礎の大切さを改めて思い出しましょう。

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