時代の変遷によって注目する指標も変わって来ます。
例えば、現代社会において国の経済力を計る時に用いる指標の一つにGDP(国内総生産)があります。
では過去に遡って戦国時代から江戸時代にかけての経済力を示すものは何だったのかと問われれば石高(こくだか)になるのではないでしょうか。
石高とは簡単に言ってしまうと米の生産高。
一石は大人1人が1年間に食べる量に相当し、キロ換算すると約150kg。ちなみに石高制においては米以外の農産物、海産物も米の生産量に換算されていたそうです。
つまり石高が高い藩は多くの兵力を抱えていたと置き換える事が出来ます。
参考までに幕末期の諸藩の石高はどれくらいだったかを調べてみました。
トップ5を見ると以下の通りです。
1位 加賀藩・前田家=120万石
2位 薩摩藩・島津家=72万8000石
3位 仙台藩・伊達家=62万石
4位 尾張藩・徳川家=61万9500石
5位 紀州藩・徳川家=55万5000石
名だたる大名の名前が連なっていますね。
ちなみに下の方に行くと1万石と言った少量の石高となります。
石高の定義からすると石高の少ない藩は人口も少ない藩と言えます。
現代の日本に視点を当てた時、47都道府県で一番人口の少ない県は鳥取県です。
しかし、その鳥取県の前身となる鳥取藩の石高に注目すると、なんと32万石です!
会津藩や彦根藩などの雄藩を押さえて13番目!
俗に江戸300藩と言いますが幕末の頃には約270藩が存在していたようです。それからすると13番目と言うのは驚く順位に位置していた事になります。
なぜこのような高い石高を持っていたのでしょうか。
その理由は鳥取藩の藩主・池田家が徳川家康の次女・督姫(とくひめ)と池田輝政(いけだてるまさ:姫路城を現在の大規模な城郭へと拡張した人です)の次男・池田忠雄(いけだただかつ)の家系であった為です。
このことから外様大名にもかかわらず松平姓を名のる事が出来、葵紋が下賜されました。更には江戸城に大名が登城する際は玄関前で刀を預けなくてはならないところ鳥取藩池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来たそうです。
この特権は越前松平家、徳川家の親藩と外様大名では鳥取藩池田家以外に加賀藩前田家にのみに許されたものとのこと。
鳥取藩は親藩に準ずる大藩だったと言う事ですね!
さて、今では日本で一番人口が少ない鳥取県ではありますが、「砂」を目的にこの県を訪れる観光客数はダントツ日本一ではないでしょうか。
そうです。鳥取砂丘です!
砂丘の前に立った時、目前に広がりを見せる砂の量には圧倒されてしまいます。
鳥取砂丘の成立はおよそ14~15万年前に遡ると考えられています。千代川によって中国山地から運ばれた砂が潮流や波、風などの働きにより堆積して出来たものです。
そして、ここを訪れた人の殆どは馬の背と呼ばれる丘の向こう側の景色を見たいと言う好奇心によって砂丘の中へ誘い出されます。
しかし、砂の上を歩くのは大変なものです。丘の上に辿りつくまでには結構体力を使います。
ところが、かつてはこの体力を消耗させる鳥取砂丘の一部が但馬往来と呼ばれる街道の一部になっていたようです。但馬往来は、古代律令制度の官道として整備され、鳥取城下から砂丘を横切り但馬地方へ向かう約25kmの街道だったそうです。
まさか歩きにくい砂丘を横切る街道があったとは想像していませんでした(^^)
ところで、「砂」とは岩石が風化や浸食などによって砕けた破片で構成され、粒径が0.0625mmから2mmのものを言います。このような小さい粒がゆえに砂は姿を様々な形に変える事が出来ます。
その特性を活かした素晴らしい芸術品を鳥取砂丘の一角に位置する「砂の美術館」で見る事が出来ます!
この砂の美術館では「砂像」と呼ばれる鳥取砂丘の砂と水だけで造られた砂の彫刻が年ごとにテーマを変えて展示されています。
私が訪問した時は「砂で世界旅行・ドイツ編 ~中世の面影とおとぎの国を訪ねて~」と言うテーマでした。
これらが全て砂で出来ているのかと、ただただ圧倒されるばかりです。
さて、鳥取砂丘と言えば「らっきょう」が有名ですね。
らっきょうは砂地や荒廃地などのやせた土地でも育つという特性を持つことから、鳥取ではらっきょうの栽培が盛んになりました。その歴史は古く江戸時代に参勤交代の付け人が持ち帰ったことが始まりと伝えられています。
↑らっきょう畑
鳥取砂丘で砂三昧の時間を過ごした後はお土産に「らっきょう」を買って帰りましょう!
しかし、鳥取は砂と言う武器を最大限に活かしていますね。
どこにでもある砂ですが、それが積もればらっきょうの産地となり年間300万人近くの観光客を集める事が出来ると言う事ですね。
「塵も積もれば山となる」
改めてこの諺の重要性を感じさせてくれる鳥取砂丘でした。