役割を終えた甲賀忍者が残した屋敷と商売

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同じ対象物でもそれを説明する一文に添えられる言葉によってその対象の印象は全く異なって来ます。

「現存する唯一の」という言葉が添えられた時、人の関心は一気に膨れ上がるのではないでしょうか。

日本全国に忍者に関連した施設は数多くあると思いますが「現存する唯一の忍者屋敷」はここだけ!

それが滋賀県甲賀市にある甲賀流忍者屋敷です!

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この忍者屋敷は五十三家ある甲賀忍者の筆頭格・望月出雲守の旧邸です。

ちなみに甲賀の発音ですが甲賀市と言う自治体や地名を発音する場合は「こうか」となります。甲賀流忍者の場合は「こうが」と発音します。この発音が後から出て来る話に関わってくるので覚えておいて下さいね(^_-)

さて「忍者」と聞くと年齢に関係なくなんとなくワクワクしてきませんか?

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その忍者が実際に生活していた屋敷内は子供から大人まで楽しめる仕掛けがあちこちに隠されています。

例えば、下記写真の引き戸にはどんな仕掛けがあるか分かりますか?

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あるいはこちらの鴨居(かもい:引き戸・障子・ふすまなどをはめる部分の、上部に渡した溝のついた横木)にはどんな仕掛けがあるでしょうか?

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答えは本文後半に記載しますのでお楽しみに。

他にも様々な工夫や仕掛けが隠されていますが全て公開してしまうと実際に行った時の楽しみが半減してしまいます。「百聞は一見にしかず」本物を見て頂いた方が楽しいと思いますのでここに記載するのは控えさせて頂きますね。

さて甲賀忍者の歴史に触れてみましょう。

甲賀忍者の名を全国に広めた出来事が「鈎の陣(まがりのじん)」と伝えられています。

応仁の乱(おうにんのらん:1467年)の後、諸国では守護や土着の武士による寺社領などの押領が横行していました。近江守護の六角高頼(ろっかくたかより)も押領により勢力を拡大していたため、室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしなお)が自ら出陣して六角氏を討伐しました。これが鈎の陣です。

この鈎の陣の際に六角氏の下で活動したのが甲賀忍者でした。神出鬼没のゲリラ戦で義尚の陣に奇襲をかけさんざんに幕府軍を手こずらせたそうです。

ところでなぜ甲賀が忍者の里になったのでしょうか?

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↑甲賀流忍者屋敷のある竜法師地区

色々な説があるためそれらをまとめてみました。推測や個人的な考察も入っているので間違いもあるとは思いますがだいたい以下の通りになりると思います。

まず日本で最初に忍者を起用したのは聖徳太子と言う説があります!

忍者と言えば戦国時代、江戸時代に活躍したと云う印象が強いのですがその発祥は聖徳太子の時代にまで遡るんですね。

聖徳太子が生きていた時代は豪族による権力闘争が絶えず起きていました。不安定なこの時代、政治家として様々な方面からの情報を収集する必要があり、またいつ命が狙われるかわからないことから護身の必要もありました。そこで起用したのが「志能備(しのび)」と呼ばれるスパイだったのです。

この志能備として聖徳太子の下で活動したのが大伴細人(おおとものほそひと)であり、日本最古の忍者とされているそうです。

ちなみに大伴氏は後に伴氏に性を変えており甲賀五十三家にも名を連ねています。

一方、同じ時代に中国大陸や朝鮮半島から日本へ移住した人々、いわゆる渡来人の中に鹿深臣(かふかのおみ)と云う人物がいます。この鹿深臣は甲賀の源流に関わりがあります。

それは甲賀(こうか)と言う地名の由来です。

鹿深臣の鹿深(かふか)が転じて「こうか」になったとされる説があります。

これを裏付けるものとして奈良県の飛鳥寺(元興寺)縁起には鹿深臣が甲賀臣として登場しているそうです。

甲賀市内に飯道山(はんどうさん)という標高664mの山がありますがこの山の麓には渡来系の古墳が多数存在するそうです。また甲賀市に隣接する蒲生地方は渡来人が移住した土地だったそうです。

鹿深臣はもしかしたら甲賀の地に移住して来たのかもしれません。

では大伴細人と鹿深臣は何らかのつながりがあったのでしょうか?

鹿深臣は日本に渡る際に遁甲書(とんこうしょ)を携えてきそうです。遁甲とは占星術の一種。天文現象から吉凶を判断して,人目をくらまし身を隠す術を指します。偶然かもしれませんが遁甲の甲は甲賀の甲ですね。

そして飯道山は甲賀忍者の修練場だったそうです。

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もしかしたら大伴細人あるいは大伴氏の誰かが鹿深臣と接触し遁甲書から術を学びそれが忍術へと変化し代々受け継がれて甲賀五十三家に名を連ねるまでに至ったのかもしれませんね。

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↑忍術の諸流を集大成した忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」

このような歴史を持つ甲賀忍者は忍者屋敷という貴重な遺産を甲賀市に残してくれました。

さて忍者屋敷の話に戻ったので冒頭の質問の回答をしましょう。

まず、引き戸ですがぶ厚い板を使用しているため60kgもある重い引き戸となっています。しかも写真に写っている箇所しか開きません。敵が侵入してきた際に簡単に開けられないように重くし、敵がもたついている間に逃げる時間を稼ぐと云う事ですね。

続きまして鴨井の仕掛けです。この鴨井の裏側には隙間があり刀などの武器が隠せれるようになっています。

さすが忍者屋敷!引き戸と言い、鴨井と言い分からないように工夫されていますよね。

ところで忍者屋敷の仕掛けと言えば「どんでん返し」の扉がありますね。表と裏がひっくり返る扉です。

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表と裏と言えば屋敷だけでなくその住人である甲賀忍者も表と裏の顔を持ち合わせていました。

裏の顔が忍者だとしたら表の顔とは一体どんな顔だったのでしょうか?

忍者の武器の一つとして暗殺などに用いる毒薬があります。つまり忍者は薬学についての知識を持ち合わせていたことになります。そして滋賀県の東側、伊吹山から鈴鹿山脈を経て飯道山のある甲賀一帯は多種多様の薬草が生育しているそうです。

この二つの事から連想されるものは?

もうお分かりですね。甲賀忍者の表の顔とは薬売りです。

甲賀流忍者屋敷の当主だった望月氏も明治初頭までは薬売りを生業としていたそうです。

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↑望月家の家紋(九曜星)のはいった薬の看板

甲賀市には現在、地場及び甲賀市に進出して来た製薬会社が30社近くあります。今も尚この地方に製薬会社が多いのはこの忍者の名残なのです。

甲賀忍者は歴史の流れの中でその存在価値が無くなり消え去ってしまいましたが薬という生活に欠かせないものを残してくれました。

現代に残された唯一の忍者屋敷に訪れた際は今は存在しない忍者に思いを馳せて下さい。もしかしたら忍術を使って突然あなたの前に現れるかもしれませんよ!

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