青龍、白虎、朱雀、玄武の四神の彫刻が施された隋神門は境内に邪気が入らないよう堂々とその身を構えています。
目を見張るほどの豪華絢爛な作りは初めて来る人の足を止めることでしょう。
昭和天皇ご即位50年の記念に再建されたこの門をくぐり抜けると緑色に変色した銅瓦の屋根と本体の濃い目の朱色との対比が美しい社殿が迎え入れてくれます。
江戸総鎮守。大都市東京を見守る神田明神(正式名称:神田神社)です。
どのような経緯で江戸の守り神となったのでしょう?
御祭神は一ノ宮が大己貴命(オオナムチノミコト=だいこく様)、二ノ宮が少彦名命(スクナヒコナノミコト=えびす様)、そして三ノ宮が平将門命(タイラノマサカドノミコト=まさかど様)となっています。
この御祭神の名前を聞いて「ん?」と思った方もいるのではないでしょうか?
だいこく様とえびす様に並んで色合いの異なる平将門公が祀られています。
なぜでしょう?
社伝には創建とその場所に関して「730年(天平2年)に出雲氏族で大己貴命の子孫である真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)に創建されたと」と記されているそうです。
神田明神の創建場所近くには将門を葬った将門塚があり、当時から東国の平家武将から崇敬を受けていたそうです。
平将門は京の朝廷に対し自らを「新皇」と称し関東一円を手中に収めることを目指しましたがそれを朝敵とみなされ討ち取られてしまいます(平将門の乱:935年〜940年)。そして、その首は京に晒されました。これが記録に残る日本史上で獄門にかけられた最も古い例となっています。
このような理由からでしょう平将門の祟りとされる伝説は多く残されています。
例えば平安時代には将門塚の周辺で天変地異や、疫病の流行が頻発し、それらが将門の御神威として人々を恐れさせたという記録が残っているそうです。
14世紀初頭にも疫病が流行し、これも将門の祟りであるとして供養が行われ、この時に将門は相殿神(あいどのしん:主神以外の神)として神田明神に祀られることになったと云う事です(1309年(延慶2年))。
祟りと聞くと少々恐ろしいですね。しかしそれも徳川家康によってイメージが変えられます。
家康は関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))に挑む際、神田明神で戦勝の祈祷を行ないました。
その結果は皆さんご存知の通りですね。家康が勝利しています。
これを機に祟りを収めるために祀られて神様となった将門は勝負に勝つ願いを叶えてくれる神様へと変わったのです。
ちなみに神田明神といえば神田祭が有名ですよね。
↑神楽殿に描かれている神田祭
神田祭は山王祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つであるのと同時に京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本の三大祭りの一つにも数えられるほど雄大な祭りです。
その祭礼時期は現在5月中旬に行われていますが以前は9月15日(旧暦)だったそうです。
9月15日は家康が関ヶ原の戦いで勝利した日です。
関ヶ原の戦い以降、神田祭は幕府公認の公式年中行事となりました。
このように家康によって厚遇されるようになった神田明神ですが将門の神威によって江戸の町を守る事を目的に1616年(元和2年)江戸城の鬼門の方角にあたる現在の場所(湯島)に移されました。
この時造営された社殿は残念ながら1923年(大正12年)の関東大震災で焼失しています。
私達が現在目にする社殿は1934年(昭和9年)に日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート構造・総漆朱塗造として復活したものです。
実はこの社殿、東京大空襲の際には境内に焼夷弾が落とされるも本殿・拝殿などは焼失を免れ今に至っています。
さすが江戸(東京)の守り神。これから先も日本の首都を守り続けて欲しいですね!
ところで神田明神の境内には摂社(せっしゃ:本社に縁故の深い神を祀った神社)の一つとして江戸神社が祀られています。江戸神社は702年(大宝2年)に現在の皇居内に創建された江戸最古の地主神です。
神田明神が現在の場所に遷座された時に江戸神社も現在の地に移ったと云う事です。
「江戸」と名の付く神社が祀られているなんて、やはり神田明神は江戸の守り神ですね。
近代的なビルが立ち並ぶ都心。時代の流れと共に古い様式の建物は失われて行きます。
しかし、例え神田明神のようにコンクリート構造になったとしても日本に古くから伝わる建築様式に則って造られた建造物は後世に残していくべきではないでしょうか。
戦火を間逃れた江戸の守護神・神田明神もそう願っている事でしょう。