誰もが心を揺さぶられるからこそ長い時を経ても色あせることなく語り継がれるのでしょう。
忠臣蔵はその代表作の一つと言えます。
ちなみに忠臣蔵は人形浄瑠璃・歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の通称であり史実としての名称は赤穂事件と呼びます。
1701年(元禄14年)3月14日(旧暦)、江戸城松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が高家旗本(こうけはたもと:高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職)の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけたとして浅野内匠頭は切腹に処せられました。
その一方で吉良上野介にはお咎めなしの沙汰が下されたため、これに憤慨した赤穂浪士が吉良上野介を討ち取ったと云うのが赤穂事件の概要です。
この討ち入りに参加した大石内蔵助(おおいしくらのすけ)以下四十七士が主祭神として祀られているのが大石神社(兵庫県赤穂市)です。
その参道の両側で参拝者を迎え入れてくれる堂々とした構えの四十七士の石像は勇気を持って行動を起こせば願いが叶うことを示唆してくれているような気がします。
さて、赤穂四十七士の討ち入りの目的は敵討ちですが、この敵討ちは日本三大敵討ちの一つとして数えられています。
残りの二つの敵討ちは「曽我兄弟の敵討ち」「伊賀越えの敵討ち」となっています。
余談ですがこの三大敵討ちは正月の初夢に見ると縁起が良いとされる「一富士、二鷹、三なすび(いちふじ、にたか、さんなすび)」の語源になっていると云う説があります。
「曾我兄弟の敵討ち」=曾我兄弟は富士の裾野で巻狩りが行なわれた際にこれに乗じて敵討ちを行なった → 一富士
「赤穂浪士の討ち入り」=赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」だった → 二鷹
「伊賀越えの敵討ち」=伊賀国はなすびの産地として知られていた → 三なすび
縁起物の語源が敵討ちから来ている説があるなんて面白いですね(^^)
ところで、そもそも赤穂浪士が敵討ちをしたのにはそれなりの理由があります。
その理由と云うのが不平等な判決です。
当時の俗識として喧嘩はその理非を問わず当事者双方共に等しく処罰すると云う原則がありました。
いわゆる「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」です。
喧嘩両成敗の考えが芽生え始めたのは室町時代のようです。
その室町時代の喧嘩両成敗の事例を一つ紹介しましょう。
元結を発注したがなかなか出来上がって来ないことにしびれを切らした主人の命で京の店に元結を取りに行った下女が店主に対し難詰しました。これが発端となり最終的に大勢の侍が京の市街で衝突、合戦にまで発展しました。
それを調停し手打ちにしたのが吉良家だったそうです。
なんと!不平等な判決で敵討ちされてしまった吉良上野介のご先祖様(たぶん何らかのつながりはあるでしょう)が平等な判決を下していたことになります。
なんとも皮肉なものですね(^^;
さて、そんな過去を持つ吉良家に対し討ち入りを果たした四十七士ですがその筆頭となる大石内蔵助はどのような人物像だったのでしょうか?
「昼行灯(ひるあんどん)」とは昼間に行灯を灯しても何の意味もないことから転じて、ぼんやりした人や役に立たない人をあざけっていう言葉です。その「昼行灯」が大石内蔵助のあだ名だったそうです。
ところがそのあだ名とは裏腹に吉良邸への討ち入りは見事に成功しています。さらには討ち入り以前にも重要な場面においては冴え渡る対応をしていたとのことです。
「能ある鷹は爪を隠す」。。。大石内蔵助は故意に爪を隠していたのでしょうか?
討ち入りを成功させるためにはその計画がバレないように日常を装って準備を進めなければなりません。そのギャップが大きいほど相手を欺くことができます。大石内蔵助の場合「昼行灯」=「能ある鷹は爪を隠す」だったのかもしれませんね。
大石内蔵助の人物像を描いた小説の一つとして池波正太郎氏の「おれの足音」があります。どんな人物像だったか気になる方はこれを読むと参考になるかもしれません。
ところで、そもそも能力を隠すには、隠すに足る能力を磨く努力が必要です。そしてその能力を悟られないための努力が必要になります。
大石神社で参拝する際は四十七士に見透かされないよう他力本願だけではなく努力をすることも宣言した方が良さそうですね(^^;