石山寺を介して出来た数奇な縁

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石山寺

「別の星に来てしまったのだろうか?」

地表にむき出しにされた国の天然記念物に指定されている巨大な石は境内の中でも一際目を引きます。

01 石山寺

02 石山寺

石の上方向に見える多宝塔(国宝)は日本最古の多宝塔とされ巨大な石とのコラボレーションで独特な景観を造り出しています。

03 石山寺_多宝塔

↑多宝塔

石山寺(いしやまでら:大津市)のある山は石灰岩と花崗岩が接触し熱作用により溶け合い変質して出来た珪灰石(けいかいせき)を持つ地層で形成されているそうです。

本堂(国宝)もまた巨大な珪灰石の岩盤の上に立ち、寺の名前もここから来ています。

04 石山寺_本堂

05 石山寺_本堂

↑石山寺本堂

石山寺は747年、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願により華厳宗の僧・良弁(りょうべん)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされています。

石や岩は険しさや荒々しさのイメージがあるため石山寺は厳しい修行のための体育会系の寺かと思えばそうではなく「蜻蛉日記(かげろうにっき)」「更級日記(さらしなにっき)」「枕草子(まくらのそうし)」「和泉式部日記(いずみしきぶにっき)」などなど多くの文学作品に登場する文系のお寺です。

また、紫式部は石山寺に参籠(さんろう:神社・寺院などに一定の期間こもって祈願すること)したことがあり、その時「源氏物語」の着想を得たとされています。

石山寺は源氏物語発祥の地とも言えますね(^^)

さてこのように平和的空気の漂う石山寺でありますが戦地となったこともあるそうです。そしてこの事は石山寺を介して不思議な縁を造り出しました。

群雄割拠する戦国時代に天下の統一へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

三人とも愛知県出身のため地元では戦国の三英傑と呼ばれています。

既にご存知の方も多くいるとは思いますがこの三人は親戚関係にあります。

豊臣秀吉の側室となり後に息子の秀頼の母親となる淀殿(よどどの)は織田信長の姪に当たります。

淀殿の妹の江(ごう)は徳川家康の三男であり徳川幕府の2代目将軍・徳川秀忠(ひでただ)の正室となっています。

なぜこんな関係になったのかはここでは割愛しますが興味のある方は調べてみて下さいね。歴史の面白さを垣間見ることが出来ますよ。

さて戦国の三英傑の1人・織田信長は天下統一に向かって進む過程で室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と対立することになります。

その対立の中で義昭は石山寺周辺に陣営を敷き、この敵対の影響で寺の一部は焼け落ち長い間再興されなかったとの事です。

しかしその後、淀殿の寄進により寺は整備されました。

06 石山寺_東大門

↑淀殿寄進の一つである山門(東大門)

話は変わりますが戦国武将・浅井亮政(あざいすけまさ)が所持していたであろう仏像が石山寺で発見されています。

先ほど淀殿は信長の姪と書かせて頂きましたがもう少し詳しく説明すると母親は信長の妹・お市の方(おいちのかた)、父親は北近江(滋賀県北部)の大名・浅井長政(あざいながまさ)になります。

そして浅井亮政は淀殿の父親の曽祖父に当たるのです。ちなみに長政は信長と敵対し討たれています。

以上の内容を簡単にまとめると、信長が原因で焼け落ちした石山寺を淀殿が再興の手伝いをし、淀殿の父親であり信長に討たれた長政の曽祖父・亮政ゆかりの仏像が石山寺で発見されたとなります。

何とも数奇な縁ですね。

更にもう一つ縁を加えると1613年、徳川家康は579石の朱印地(しゅいんち:徳川幕府や大名より神社・寺院の領地として領有権の承認された土地)を石山寺に寄進しています。

既に述べましたが家康の息子・秀忠の正室は淀殿の妹・江ですね(^^)

石山寺を介して親戚関係という縁以外の様々な縁が出来たと言えるでしょう。

「袖振り合うも多生(他生)の縁」

人と人との関係は一見無縁なように思えても何らかの関わり合いが必ずあるはずです。

石山寺に訪れた際は改めて人との出会いの大切さを思い返しましょう!

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