孔子が泰山のふもとを歩いていると、墓の前で泣いている一人の婦人を見かけた。その理由を尋ねると「父、夫、息子を虎に食い殺された」と答えた。そこで孔子が「それならば、何故そのような危険な地から出て行かないのか?」と尋ねると「ここでは、税金を取り立てるむごい政治が行われていないから」と答えた。
「苛政は虎よりも猛し」
厳しい政治。苛酷な政治を苛政と言う。
大和朝廷が近畿地方を中心に勢力を拡大していたころ東北地方に住む人々は総じて蝦夷(えみし)と呼ばれていた。
7世紀の中頃から9世紀の初頭にかけて、大和朝廷は東北地方の蝦夷を軍事的に制圧し服属させた。
8世紀中頃に創建され10世紀中頃まで出羽国(現在の秋田県、山形県)北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った大和朝廷の拠点がある。
秋田城である。↑秋田城跡_外郭東門↑秋田城跡_外郭東門↑秋田城跡↑秋田城跡
その秋田城を中心に蝦夷が反乱を起こした。
理由は大和朝廷の苛政である。
9世紀後半の元慶(がんぎょう)年間、旱魃による飢饉が全国を襲った。
それでも、秋田城の官司(かんし)は苛政を続けた。↑秋田城跡_政庁模型
陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになった人々を俘囚(ふしゅう)と呼ぶ。
蝦夷はもちろんの事、朝廷に帰属した俘囚にもその不満は広がり遂に怒りは頂点に達し、夷俘(いふ:蝦夷、俘囚の双方を指す)が秋田城を急襲したのである。↑秋田城跡
秋田城を中心に繰り広げられた戦を元慶の乱(がんぎょうのらん)と呼ぶ。大和朝廷は何千もの兵を送り込むが夷俘の勢いは止まることを知らず官軍は大敗を喫した。↑秋田城跡_井戸
この状況に終止符を打った人物がいる。
藤原保則(ふじわらのやすのり)である。
この人物、よほど兵法に長けた武人と思うだろう。
ところが元慶の乱までの経歴は文官でしかない。
どうしてこのような人物が官軍を大敗に追い込んだ夷俘を抑える事が出来たのだろうか?↑秋田城跡_古代水洗トイレ
寛政とは緩やかで情のある政治。寛大な政治の事を指す。
保則は飢饉によって疲弊しきっていた備中国(現在の岡山県の一部)へ赴任した経験を持っている。その時に彼がとった政策は貧者の税を軽くし、自立に向けて田畑の開墾や農業を奨励するものだった。それにより飢饉から国を立ち直らせたのである。
そのような人物が元慶の乱の鎮圧を命じられたのである。↑秋田城跡
保則は現地へ赴くと兵の配置を整備すると共に反乱の要因を探った。
その結果、飢饉によって人々が疲弊しているにも関わらず役人が行政の在り方を変えようとしなかった事に起因している事を突き止めた。
そこで保則は朝廷が万が一の事態に備えて蓄えていた穀物類を譲与したのだ。そして相手を懐柔する事に力を注いだのである。
結果、投降するものが徐々に増えた。
それを受け入れ平和的に解決したのである。
なんと見事な戦略だろう!
「戦わずして勝つ」とは正にこの事だ。↑秋田城跡
今、世の中は激流の最中にある。
企業は生き残りを懸けしのぎを削っている。
このような中で寛政を施すにはどうしたら良いのだろか?
1つの例を挙げてみよう。
どこの企業も古い決まり事や行事、伝統などを持っているだろう。これらの中には守るべきものと変えなければならないものが混在しているはずである。
しかし、その見極めは難しい。
今の時代にそぐわない行事や伝統などなどを従業員に無理強いし無駄な時間や資金を費やす事は従業員の不満を増長させるだけだろう。
一方で従業員にとって心地の良い行事や伝統もある。
つまり、苛政と感じるか寛政と感じるかは従業員が感じる事である。
経営者にとっては従業員のこの感覚をどこまで理解できるかが重要になる。それを無視すれば裸の王様となってしまう。↑秋田城跡
会社の経営者でなくとも組織のリーダーや何らかの指導的立場にある方は秋田城跡に赴いたら自分は苛政を施しているのか寛政を施しているのかを思い起こして頂きたい。
※高橋克彦著「水壁」は夷俘側からの元慶の乱を描いた小説である。違う角度からこの戦を見るのも面白いかもしれない。
【関連情報】
秋田のお土産情報です。