桜の似合う角館の町の始まりにまつわる伝説

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舞い散るピンクの花びらは黒塀をバックにこの町の風情を引き立てます。

1871年(明治4年)に行われた廃藩置県まで約200年間佐竹北家によって統治されて来た角館(かくのだて:秋田県仙北市)の町に今も残る武家屋敷通りです。↑武家屋敷通り

その両側を彩るシダレザクラは佐竹北家の初代・佐竹義隣(さたよしちか)の嫡男である2代目・義明(よしあき)の妻が輿入れの際に京都三条西家から持ってきた嫁入り道具の中に3本の桜の苗木があった事に由来しているそうです。↑シダレザクラ

桜の似合う町、角館は偶然なのか必然なのか桜は風景だけでなく生活へも深く溶け込んでいると言えるかもしれません。

と言うのも桜の樹皮を利用して作られる樺細工(かばざいく)とよばれる伝統工芸品は角館だけにその技術が受け継がれ、藩政時代には下級武士にとって副収入源になっていたとのことです。

↑樺細工(出典:ウィキペディア)

更に、武家屋敷通りから少し離れた場所に並行して流れる桧木内川(ひのきないがわ)の堤防には約400本のソメイヨシノが約2kmに渡って植えられています。↑桧木内川とソメイヨシノ

この桜は1934年(昭和9年)桧木内川左岸堤防築堤の完成、及び当時の皇太子明仁親王の生誕を祝して町民によって植えられたものです。

角館の人達の桜に対する愛は過去から現在に渡り途切れる事なく引き継がれていると言えるでしょう。そして未来にどのような形で桜が表現されるのかが楽しみですね。

さて、みちのくの小京都と呼ばれる美しい角館の町はどのようにして出来上がったのでしょうか?↑武家屋敷通り

その始まりは1603年に蘆名義広(あしなよしひろ)が角館の領主となったところから始まります。

角館の領主となった義広は下水を整備し、見通の良い幅の広い道を走らせながらもその途中に外敵の進入を鈍らせるためのクランク状の枡形を設ける事で防衛の配慮も行ないました。↑武家屋敷通りの枡形

また、火災対策として町の中心部に火除けのため土塁を設けその土塁の北側を内町(うちまち)として武士の居住区に、南側を町人の居住区である外町(とまち)としました。

以来、この町の構成は現代まで引き継がれ、武家屋敷通りには石黒家、青柳家、小野田家、河原田家など角館領主に仕えた武士の屋敷が今もなお残されています。↑石黒家↑青柳家↑小野田家↑河原田家

さて、現在に残る美しい町並みを残してくれた蘆名義広ですが孫の代で断絶してしまい角館の統治は佐竹北家に引き継がれます。以降、冒頭で説明しましたように廃藩置県までの約200年間を佐竹北家が治めました。

実は蘆名義広の実兄は関ヶ原の合戦(1600年)の後、久保田藩(現在の秋田県域)の初代藩主として入封した佐竹義宣(さたけよしのぶ)です。

義宣は養子として蘆名家の当主となった蘆名義広を角館の領主として配置させたのです。

従って蘆名氏としての角館の統治は途絶えたものの元々蘆名義広は佐竹氏の出身ですから佐竹一門の佐竹北家が角館の統治を引き継いでも問題なかったと言う事になりますね。

ここでもう少し蘆名義広に焦点を当てたいと思います。

と言うのも義広には角館の町造りに関わる伝説が残されているからです。

義広は当初、自分の居館を武家屋敷通りの北側に位置する小松山の中腹に構えたのですが、義広の夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したというものです。

そしてもう一つ少し興味をそそる伝説があります。

蘆名氏は会津地方に一大勢力を築いていた戦国大名でした。蘆名氏を率いる義広は1589年摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で奥州制覇を目論む伊達政宗と一戦を交え大敗しています。その時、義広は敗走中に18頭の馬に積んだ蘆名家の財宝(金の延べ棒)を猪苗代湖底に沈めたと言う伝説です。

そしてこの財宝を密かに引き揚げ角館の町を造る資金として使ったと言う説があるそうです。

角館が美しい町に仕上がっているのはもしかしたらこの財宝のおかげかもしれませんね。

真意は謎に包まれていますがいずれにしても義広が造った角館の町は戊辰戦争や第二次世界大戦などからの被災を逃れ、今に至るまでその姿を残しています。

↑武家屋敷通り

本当に美しいものは何らかの力が働いて守られると言う事かもしれません。

機会があれば是非、桜の良く似合う角館の町を散策して下さい。もしかしたらあなたが新たな伝説を造るかも。

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