砺波平野を彩る美しい散居村

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人が創り上げた心洗われる美しい風景としては日本最大級と言えるかもしれない。

広大な耕地の中に民家が散らばって点在する集落形態を散居村(さんきょそん)と呼ぶ。

島根県の出雲平野、岩手県の胆沢(いさわ)平野の散居村に並び日本三大散居村の1つに数えられる砺波(となみ)平野の散居村は220キロ平方メートルの広さに約7,000戸を超える民家が点在する日本最大の散居村である。

人工物と自然の融合が魅力的な風景を創り出せるという好事例だろう。↑散居村(閑乗寺公園(南砺市)からの眺望)

この風景はいつ頃から見られるようになったのだろうか?

奈良東大寺の正倉院に保管されている8世紀の地図に散居村の起源と考えられる砺波平野の荘園が描かれているそうだ。

但し、当時の集落形成は砺波平野を流れる庄川(しょうがわ)の流路の移動や洪水等によりそのまま残されているわけではない。

現在の集落形成が固まったのは江戸時代に加賀藩の治水事業によって庄川の流れが固定され用水路の整備が進んだ頃とされている。

いずれにせよ散居村としての形態は古くからこの土地の特徴として育まれて来た事に変わりはない。

散居村ではその居住形態も一般的な形態とは異なる。

砺波平野の散居村を構成する家々はカイニョと呼ばれる屋敷林に囲まれ、その周りは水田によって覆われている。

カイニョとは垣のように饒(めぐ)らせた樹木を意味する垣饒(かきにょう)がなまったものとされ、この地方特有の呼称である。

↑散居村のカイニョと家屋

このカイニョに囲まれた家屋もまたこの地方独特の顔を持っている。

アズマダチと呼ばれる民家である。

しかしそれを間近に見るにはカイニョの内側に入らなくてはならない。つまり他人の家を覗く事になるから問題がある。

そこで訪れて頂きたいのが「となみ散居村ミュージアム」である。

ここではアズマダチの他、民具館や情報館などで散居村の一部を垣間見る事が出来る。↑となみ散居村ミュージアム_アズマダチ

↑となみ散居村ミュージアム_民具館

↑となみ散居村ミュージアム_情報館

ちなみにアズマダチの名前は正面玄関が東を向いている事に由来する。

砺波平野は冬になると南西から季節風が吹いて来る。従ってカイニョは南西側が特に充実している。一方、家屋はカイニョが薄くて朝日の昇る方向である東側に建っている。この事からアズマダチと呼ばれている。

しかし、残念な事にこのような特徴ある伝統的な住居形態は減っているそうだ。

もともとカイニョの樹木は建築資材として、落ち葉や枝木は燃料として利用されていたとの事。ところが、現代人の生活様式が変化して来ると手入れがかかるものへとその価値の在り方が変わった。この事が減少要因の1つとして挙げられている。家屋においても現代の工法や資材が変化しているから同じ事が言える。

日本各地には古い町並みを残すために重要伝統的建造物群保存地区に指定されている場所が多くある。この場合、狭く限られた範囲である為、大変な事と思うが保存管理も出来ない事ではない。

ところが散居村の場合、広大な土地に民家が点在する事により成り立っているのでこれを保存管理しようとなると相当に難しい。

行政も様々な対策を模索しているようだが決め手に欠けているようだ。↑散居村(となみ散居村ミュージアムの展示パネル)

江戸時代、加賀藩は割地制度を行なった。

割地制度とは一村内の田地において収穫高が場所によって大きくかけ離れる場合、百姓の年貢の負担を均等化するため田地を割り替えると言う江戸時代に各地で行われた慣行である。

しかし、加賀藩は散居村において割地後に自分の屋敷の周辺に耕地を集めるための交換を認めていたと言う。

その理由は「加賀百万石」と言われ全国一の石高を誇っていた加賀藩の石高の内、4分の1に当たる25万石を砺波平野で生産していた事にある。

ところがこれは表向きの理由で、実は加賀藩に対する不満から生じる一向一揆を画策する為の密談をさせない為に家の間隔を離し監視を置いたとする説がある。

藩と住民の利害関係が一致した事により散居村が残されたと言えなくもない。

加賀藩と住民の利害関係は物騒なところもあるが現代の行政と住民の平和的利害関係の最大公約数を見つけ出し散居村の風景が維持される事を願うばかりである。↑散居村(となみ散居村ミュージアムの展示パネル)

もちろんそれがどれだけ難しい事かは理解しているつもりだがそれだけ散居村の風景が素晴らしく美しいと言う事をお分かり頂きたい。

↓となみ散居村ミュージアム

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