「平安の風わたる公園」に行って古の戦いで何が生まれたのかを学びましょう

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沼は日本全国どこにでもありますが、秋田県横手市の郊外にある西沼(にしぬま)は「平安の風わたる公園」として整備され、日本の重要な歴史と大きな関わりを持っています。↑西沼

↑平安の風わたる公園

後三年の役(ごさんねんのえき:後三年合戦(ごさんねんかっせん)とも呼ばれる)は平安時代の後期に東北地方(陸奥・出羽)で繰り広げられた戦いです。

そして、西沼は後三年の役の重要な舞台になった場所なのです。

後三年の役の成り立ちは非常に複雑な為、その全容を語る事は他に譲るとして、ここではかいつまんで話をしたいと思います。

平安時代の後期、東北地方で大きな勢力を誇っていた清原氏(きよはらし)。

1083年、当時の清原氏の当主だった清原真衡(きよはらのさねひら)と2人の弟・清衡(きよひら)、家衡(いえひら)の間で内紛が生じました。

真衡は陸奥守(むつのかみ)であり鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)であった源義家(みなもとよしいえ)を味方に付け勝利を得たのですがそれも束の間、真衡は急死してしまいます。↑平安の風わたる公園_源義家像

真衡の死によって、その領地は義家の采配で清衡と家衡に平等に分け与えられたのですが、それに不満を持ったのが家衡です。↑平安の風わたる公園_清原家衡像

家衡は清衡と衝突。

家衡は叔父の武衡(たけひら)を味方に、清衡は義家を味方に付け後三年の役が始まりました。↑平安の風わたる公園_清原武衡像

戦の結果は清衡が勝利する事で幕を閉じます。

後三年の役の内容はざっとこんな感じです。

ところで最終的に勝者となった清原清衡ですが、実は清原氏の血は流れていません。

どう言う事なのでしょう?

清原真衡、清衡、家衡は兄弟です。しかし、真衡と家衡の父親は清原武貞(きよはらのたけさだ)と言う同じ父親なのですが清衡の父親は藤原経清(ふじわらのつねきよ)と言う人物です。

武貞は再婚しており、その時に奥さんとなった女性の連れ子が清衡です。よって清衡には清原氏の血は流れていないのです。

だから家衡は清原氏と血の繋がりのない清衡と平等に土地が分けられたのが気に入らずに清衡と衝突したと言うわけです。因みに清衡の母親と家衡の母親は同じだから清衡と家衡に同じ血は流れているんですけどね(^^;

後三年の役で勝利した清衡ですが、前述したようにもともとの名は藤原清衡です。

そしてこの藤原清衡こそが奥州藤原氏の初代当主なのです。↑平安の風わたる公園_藤原清衡像

奥州藤原氏と言えば世界遺産に登録された奥州平泉の金色堂(こんじきどう)を持つ中尊寺(ちゅうそんじ)で有名ですね。

後三年の役は奥州藤原氏発祥の起点だったと言うわけです。

さて、西沼についてです。

雁(がん、かり)には首領を先頭として列を作って飛ぶ習性があります。この列を雁行と呼びます。

後三年の役の有名な逸話の一つに「雁行の乱れ」があります。

「源義家の軍が家衡軍の籠もる金沢柵(横手市街の北方に位置する山腹に築かれた古代日本の城柵の1つ)へ行軍中に西沼の付近を通りかかった際、義家は雁の列が林の上で乱れ飛んでいたのを見て敵が待ち伏せしていることを見破りました。義家の軍は伏兵にいち早く気付いた事により不意打ちを受けることなく敵兵を殲滅することに成功しました」

西沼は「雁行の乱れ」の舞台なのです。↑平安の風わたる公園_「雁行の乱れ」のレリーフ

金沢柵が後三年の役の最終決戦の場となるのですが、ここで日本の歴史上初の兵糧攻めが行われました。

兵糧攻めに苦しむ家衡軍は敗走。金沢柵内の人々も全て完膚なきまでに叩き潰されました。

こうして後三年の役は終了したのです。

↑金沢柵跡近くにある「後三年合戦金沢資料館」

奥州藤原氏の発祥の起点となり、日本初の兵糧攻めが行われた後三年の役ですが、この戦いで発祥したものは他にもあります。

納豆です。

納豆の誕生には諸説あるようですが、その一説が後三年の役がきっかけで生まれたと言うものです。

「腹が減っては戦はできぬ」。

戦に食べ物は欠かせません。その一つが煮豆でした。

38度と言うのは納豆菌を活発にさせる適温だそうです。煮豆をワラで編んだ俵に詰め込み、馬の背に載せて進軍したところ、人間より高い38度前後の馬の体温によりワラに付着した納豆菌が活発になり納豆の原型が生まれたと言う事です。

後三年の役から日本の歴史、文化に欠かせないものが生まれたと言う事ですね。

このような視点で見れば、後三年の役が起点となったと言える日本の歴史に絶対欠かせないものがまだあります。

武士集団としての源氏」です。

後三年の役は義家が鎮守府将軍として東北での戦乱を収めた事になるのですが朝廷はこの戦いを義家の私闘とみなして恩賞を与えませんでした。

その為、義家は戦いに動員した関東武士に対し私財をもって将士をねぎらったのです。これにより臣従する者が多く出て関東に源氏の基礎を築く事となりました

義家は後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。

まさに「武士集団としての源氏」を創り上げた人物と言えるでしょう。

もちろん戦争は無いに越した事はありませんし、戦争を肯定するつもりもありませんが戦争で発祥するものもあり、学べる事も多くあると言えます。

かつて戦いが行われた西沼の畔は「平安の風わたる公園」と言う長閑(のどか)な公園に生まれ変わっています。

後三年の役は戦争と言うマイナスな面からプラスな面を創り出しながら戦争の無い世の中に少しでも近づける事を示唆してくれているのかもしれません。

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