仙巌園と集成館事業の遺構から見る日本人の精神

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四季は大自然が紡ぎ出す気候変化の織物と言える。

日本人はその四季の移り変わりを敏感に捉え自然と調和して暮らす生き方を古(いにしえ)より育んで来た。

その過程で生まれた考え方や見方を礎にし、外国と比較した時に日本流であると考えられる精神や才覚、あるいは知恵を指す概念を大和魂(やまとだましい)と呼ぶ。

日本人が大切にしたい概念である。

平安時代中期。紫式部の「源氏物語」第21帖「少女」の中で光源氏が話す一文に「大和魂」と言う言葉が初めて使われた

「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」

才とは中国伝来の学問「からざえ(漢才)」の事を指しており、現代語訳すると「やはり漢才を基礎にしてこそ、持前の大和魂も立派に世間に役立つというものでしょう」となる。

この一節の基になったのは藤原道真(ふじわらみちざね)が考えたとされる四字熟語「和魂漢才(わこんかんさい)」であろう。

日本固有の精神、すなわち大和魂を失わずに中国など外から入って来た知識や学問、つまり漢才を基礎教養として取り入れ、日本の実情に合わせて活用すべきであると言う意味になる。

この和魂漢才の概念が生まれてから約900年後の幕末から明治にかけて中国に代わって西欧から新しい知識や学問がもたらされた。

その時に生まれた言葉が「和魂洋才(わこんようさい)」だ。

この和魂洋才を具現化したとも言える場所が鹿児島にある。

仙巌園(せんがんえん)」だ。

仙巌園は1658年(万治元年)に薩摩氏第19代当主であった島津光久(しまづみつひさ)によって造園された日本庭園である。

桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた借景技法を用いたこの庭園は訪れる人を魅了する。

園内には御殿を中心に美しい日本の風景が広がっている。

↑仙巌園↑仙巌園から望む桜島

なぜここが和魂洋才を具現した場所なのか?

黒船の来航により西洋の脅威が日本を覆う幕末。

第28代当主島津斉彬(しまづなりあきら)が仙巌園の一部を利用した。ガラス工場やヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設したのだ。

現在もその遺構は仙巌園に点在している。

それらの一部を見てみよう。

↑反射炉跡↑水力発電用ダム跡↑高枡(たかます:水の分岐と水量を調整するための水道施設。給水塔)

日本人の感性が織り込まれた庭園に西洋からもたらされた当時の最新技術の遺構が上手く溶け込んでいると言った感じだ。

更に、仙巌園の周辺には集成館事業の建物群が残されている。

集成館事業とは島津斉彬(しまづなりあきら)によって起こされた日本最初の洋式産業群「集成館」を中心とした近代化事業の総称である。

アヘン戦争(1840年〜1842年)によって東洋一の大国「眠れる獅子」と呼ばれた清帝国は敗れ去り植民地化された。

地理的な影響から、これに脅威を感じた薩摩藩は日本の他の地域より日本が植民地化されることに対し強い危機感を感じた。

島津斉彬はその脅威から逃れる為に近代化を進めたのである。

その集大成とも言えるのが集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)だ。

集成館事業の遺構も仙巌園の周りに点在している。

こちらも、その一部を紹介したい。↑尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)※日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物。かつては機械工場だったが現在は博物館となっている。↑尚古集成館別館↑旧鹿児島紡績所技術師館↑鹿児島紡績所跡↑旧芹ケ野島津家金山鉱業事業所(きゅうせりがのしまづけきんざんこうぎょうじむしょ)※この建物は現在、スターバックス「鹿児島仙巌園店」として使用されている。↑造船所跡

和魂洋才の精神を含んだ薩摩藩の近代化は日本の近代化の先駆けとなり明治維新を経て現代の日本の礎を築いたと言える。

しかし、もの造り大国として成長して来た日本は現在GAFAに代表されるIT業界の黒船の到来によって産業構造の大変革に待ったなしの状況だ。

ここで必要になって来る精神面での考え方の一つが「和魂洋才」と言っても過言ではないだろうか。

今回も知識や学問を吸収し日本独自の技術や文化へと発展さて大きな波を乗り越えられる事を信じたい。

 

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