この世で起きる事象には必ず何らかの意味があるのではないでしょうか。
生還を前提としない体当り攻撃。
この無謀な作戦の中心となったのが特攻隊(特別攻撃隊)です。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月から6月にかけて鹿児島県の陸軍航空隊知覧飛行場から爆弾を抱えた400機近くの戦闘機が沖縄周辺のアメリカ艦隊に向けて突入しました。
この悲壮な作戦で尊い命を捧げたのは二十歳前後の若者達です。
「命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならない」という情念の下で運営されているのが知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん:南九州市)です。
知覧特攻平和会館の設立は陸軍航空隊知覧飛行場跡地に特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に1955年(昭和30年)に「特攻平和観音堂」が建立された事に端を発します。↑現在の特攻平和観音堂
その後、隣接する場所に特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」が整備されました。しかしそれが手狭となったため1985年に「知覧特攻平和会館」が建設され、現在に至っています。
2019年に世界最大の閲覧者数を擁する旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」が発表した「日本の美術館・博物館ランキング2019」では博物館部門で日本国内1位となっています。
戦争に対する関心が薄れゆく事が懸念される中、このような結果が出ている事に安堵感を覚えました。
それでは会館周りの施設を見学してみましょう。↑特攻勇士の像「とこしえに」と航空自衛隊練習機T-3↑平和の鐘↑知覧町護国神社↑映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影に使用された一式戦闘機「隼」↑大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所正門の門柱
大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所はやがて特攻を主軸とする知覧特攻基地へと転換されました。↑石灯籠
沖縄戦で戦死した1036人の特攻隊員を弔うために寄進された石灯籠が知覧町の中心部から知覧特攻平和会館まで1700mに渡って続きます。当初は1036基の予定でしたが寄進が続き現在では1200基を越える程になっていると言う事です。
↑三角兵舎
特攻隊員が出撃前の数日間を過ごした宿舎を復元したものです。ここで壮行会が催され酒を酌み交わし故郷へ送る遺書や別れの手紙を書いたそうです。
さて、会館内ですが会館内には特攻隊員の遺品や遺書の他、映像や戦闘機が展示されています。しかし、残念ながら撮影禁止のため画像での紹介が出来ません。
会館内を見学された方々が持つ思いや意見はそれぞれ異なるでしょう。そして各々がそこで何らかの意味を得ていると思います。
今回は、異論もあろうかとは思いますが、私が会館内を見学し、特に印象に残っている事をお伝えする事で知覧特攻隊平和会館を訪れて得る事が出来た意味の一つを知って頂けたらと思います。
会館内に展示されている写真・遺影に写る特攻隊員達の表情は意外にも笑顔が多く朗らかな顔をしています。
なぜ、こんな笑顔でいられるのだろう?これから命を失うと言うのに。
笑うと言う行為にはリラックする効果があると言います。
笑いは、身体的には筋肉の緊張状態を軽減し、心理的には余計なことを考えさせない、つまり心を無にする事を促すそうです。
そして、笑うことで内から新しいエネルギーを汲くみ出し、安定した精神状態を獲得する事が出来るそうです。
特攻隊員達は無意識のうち笑顔となり精神状態を安定させていたのかもしれません。人生には辛い事や悲しい事が必ずあります。笑顔を作る事でそれらを乗り越えられる事を後世の人達に伝えたかったのかもしれません。
極限の立場に置かれた自分達でも出来た事だから、あなた達にも必ず出来ると。
自分の命を捧げてまで私達に伝えたかったメッセージの一つだと思います。
最後に、山下孝之少尉(当時19歳)が遺した言葉でこの記事を締めたいと思います。
『只今、元気旺盛出発時刻を待って居ます。いよいよ此の世とお別れです。お母さん必ず立派に体当たり致します。
昭和二十年五月二十五二日八時。これが私が空母に突入する時です。今日も飛行場まで遠い所の人々が私達特攻隊のために慰問に来て下さいました。丁度お母さんの様な人でした。別れの時は見えなくなるまで見送りました。
二十四日七時半 八代上空で偏向し故郷の上空を通ったのです。
では、お母さん、私は笑って元気で征きます。
永い間 御世話になりました。妙子姉さん、緑姉さん、武よ元気で暮らして下さい。
お母さんお体大切に。私は最後にお母さんが何時も言われる御念佛を唱えながら空母に突入します。
南無阿弥陀仏
昭和二十年五月二十五日』
(出典:「いつまでも、いつもまでもお元気で」知覧特攻平和会館編)