知覧の武家屋敷群を通して見る薩摩藩の強さの理由

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「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」とは武田信玄の名言だが薩摩藩の当主島津氏も「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」と言う思想を持っていた。

戦国時代、薩摩の島津氏が九州全土へ勢力を広げようとする中、豊臣秀吉によって九州の平定が成され島津氏は旧領の薩摩・大隅に封じ込められた。

これに抗うかのように島津氏は外からの侵害を防ぐため自領の防衛体制を完璧な形へと整備した。領土を複数の区画に分けそれぞれに地頭や領主を配置し軍備を整えたのである。

戦国時代が終焉を迎えると1615年徳川幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定した。

その内の1つに一つの藩に一つの城しか認めないと言う一国一城制がある。これにより各藩は戦国以来の外城(そとじろ)を廃止し、城下町に武士を集めて住まわせた。

しかし、島津氏が当主の薩摩藩は違った。

他の藩と同様に外城は廃城としたが、戦国時代に配置した地頭や領主の屋敷を中心に「(ふもと)」と呼ばれる武家集落を造り各領土の統治にあたらせたのだ。

これを「外城制(とじょうせい)」と呼ぶ。つまり城下町の縮小版のようなものである。

この名残がかつて島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていた知覧の武家集落である。

現在は「薩摩の小京都」とも呼ばれ国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

それではその情緒豊かな武家屋敷通りとその両脇に残る美しい庭園を持った武家屋敷を散策してみよう。

西郷恵一郎(さいごうけいいちろう)邸庭園↓

庭園は鶴亀の庭園と言われ、その石組みは空に羽ばたく鶴と大海に注ぐ谷川で遊ぶ亀を表している。

平山克己(ひらやまかつみ)邸庭園↓

母ヶ岳(ははがたけ)を借景(しゃっけい)とし、大海原に浮かぶ無人島と遠くに見える大陸を表現した調和のとれた庭園である。

平山亮一(ひらやまりょういち)邸庭園↓

石組みは無く、前面のサツキの大刈り込みと、その背後に高い峰を表現した生垣だけで構成される庭園である。極端に簡素化されながらも美しさを保っている。

佐多美舟(さたみふね)邸庭園↓

巨岩による石組みを設けた知覧の武家屋敷群の中でもっとも豪華で広い庭園である。

佐多民子(さたたみこ)邸庭園↓

「巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を写し出し、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているようだ」と表現されている幻想美を兼ね備えた庭園である。

佐多直忠(さたなおただ)邸庭園↓

3.5mの立石と枯滝の石組みの対比が見事なバランスを呈し、水墨画をそのまま表現したとされている。

森重堅(もりしげみつ)邸庭園↓

武家屋敷通りの屋敷では珍しい水を用いた庭園であり、曲線に富んだ池には奇岩怪石が用いられ、山や半島が表されている。

如何であろう。

このような庭園を見ていると平和で穏やかな雰囲気に身を包まれた感覚になったのではないだろうか?

ところが、である。

その細部を見ると武装されている。

屋敷の門を潜ったところに待ち構えるように石垣が設けられている。

琉球由来とされるこの石垣は「屏風岩 (ひんぷん) 」と呼ばれ敵が攻めて来た際に一斉に屋敷へ雪崩れ込む事を防ぐ役割をしている。あるいは中に弓矢を放つ事も出来ない。↑屏風岩

通りが真っ直ぐに造られていないのも同様に敵の勢いを削ぎ、矢を防ぐからである。↑武家屋敷通り

屋敷に高く植えられた生垣は外から中が見えにくく、更に柔らかくてよじ登る事も出来ない。↑高く植えられた生垣

敵兵からの防御と言う観点からは少し異なるが、三叉路の突き当たりに「石敢当 (せっかんとう) 」と呼ばれる大きな石が置かれている。↑石敢当

中国に起源を持つ信仰で屋敷に魔物が入って来るのを防ぐと言う。

験担ぎ(げんかつぎ)は戦場で心理的に有利に働く。

これもまた敵兵からの防御と言う観点からは少し異なるが、道は掘って造られたものだそうだ。

両側の石垣は積み上げたものでは無く、掘られた両側の土が崩れて来るのを防ぐ役割をしている。↑武家屋敷通り

なぜ、掘られているのか?

屋敷に溜まった水が道に流れていくようにしているそうだ。城造りの発想である。

薩摩の外城は一国一城制により確かに無くなり麓と呼ばれる武家集落に変わったが一見平和感の漂う武家集落は武装された城のようなものである。

江戸時代、麓集落は113あったそうだ。つまり外城が113ヶ所あると言い変える事が出来る。

薩摩藩は武士の数が非常に多く幕末には各藩の平均が6%だったのに対し薩摩藩は26%だったそうだ。

これらの武士が113の外城に配備されていたとも言い変えられる。

外城制の麓集落は後に「郷(ごう)」と言う呼称に改名されている。

そしてこの郷で用いられた教育が郷中(ごじゅう)教育である。この教育を受けて育った薩摩藩士が幕末に明治維新の中心的存在として活躍した。

こうしてみると領土全体が外城で覆われ、郷中教育で育ち他藩より多くの武士を持つ薩摩藩が明治維新を成功させたのも頷ける。

城をもって守りと成さず、人をもって城と成す

戦国時代も幕藩体制下でも、そして現代社会の組織においても人が守りの要と言う事に変わりはない

知覧の武家屋敷群の穏やかで趣のある風景の裏側に垣間見ることの出来る実相である。

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