日本大正村で日本の文化の基礎となった大正時代に触れてみましょう

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テーマは過去の時代の一つ。

町全体が博物館。

いったどこの町の博物館なのでしょうか?

答えは岐阜県恵那市明智町(えなしあけちちょう)にある日本大正村です!

この「大正」と言うのはもちろん大正時代の大正です。

明智町には大正に関する資料館や大正の雰囲気を残した店舗、あるいは再現した店舗が点在しており、町全体が博物館と言う設定になっています。

大正を扱ったこれだけの規模の博物館は日本でもここだけでしょう。

そして最近の事で言えば大正は人気絶頂の「鬼滅の刃」の舞台となっている時代である為、日本大正村にとっては追い風になっていると言えますね。

その一方で、大正と言うのは約15年(1912年〜1926年)と言う短い期間であり明治・昭和と言うインパクトの強い時代に挟まれていると言う事も手伝って印象の薄い時代でもあります。

では、どんな時代だったのでしょうか?

今回は日本大正村を散策しながら、どちらかと言えば歴史の教科書に出て来ない大正の出来事について少しだけ触れてみたいと思います。

大正と聞いて大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指す言葉である「大正ロマン」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

日本大正村を散策する際に起点となっているのが、お土産屋、レストラン、カフェが入っている「大正村浪漫亭」です。↑大正村浪漫亭

では大正村浪漫亭を出発して散策を開始しましょう。

まず、「大正」と言う年号はどのようにして決められどのような意味があるのでしょうか。

出典は「易経」であり、「大亨以正、天之道也(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)」から「大」と「正」の二文字が選ばれました。その意味は「天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われる」というものです。

↑大正路地

大正を代表する言葉の一つ「大正デモクラシー」は大正時代に政治・社会・文化の各方面で展開された様々な自由主義・民主主義的な運動を指します。ある意味年号通りの時代であったと言えるのかもしれませんね。↑大正村役場(旧明智町役場)

大正に有った主な出来事としてよく取り扱われるのが関東地方に甚大な被害をもたらした関東大震災(1923(大正)12年)やシベリア出兵(1918(大正7)年〜1922(大正11)年)などが挙げられます。

関東大震災は東京を焼け野原としてしまいましたが、それがきっかけとなって生まれたものがあります。

その一つが大衆食堂です。

1箇所で何種類もの料理が安く手軽に食べられる事からサラリーマンを中心に大人気だったようです。ちなみにサラリーマンが登場したのも大正時代です。↑大正ロマン館(1994(平成6)年にオープンした大正のモダンなイメージをした洋風建築。ヨーロッパの楽屋オルゴールなどが展示されている)

一方、シベリア出兵がきっかけとなって日本に広まったものもあります。

シベリア出兵とはロシア革命に武力干渉する目的でフランス、イギリス、アメリカ、日本がシベリアに共同出兵した出来事を指します。↑大正の歯科医院

このシベリア出兵で多くの日本兵がシベリアに派遣された為、沢山の食料が必要になりました。日本人の主食は米ですから日本から米を持っていかなければなりません。これにより米の価格は暴騰します。このような理由がきっかけとなり起きたのが米騒動(1918(大正)7年)です。

そして米騒動により米の入手が難しくなった事から大衆に広まった食べ物がパンです。パンは戦国時代にポルトガルから伝わって来たものですが大衆に広まったのは大正時代と言うわけです。

↑通信資料館

また、パンと同じように現代の日本人にとって一般的になっているビールが家庭に広まったのも大正時代です。ちなみにビールは明治時代に日本へ入ってきました。

このようにして見ると大正時代に起きた出来事と食べ物は密接に繋がっていると言えますね。

↑大正村資料館(銀行蔵)↑大正村資料館(大正の館)

最後にもう一つ食べ物の話として日本で定番となっている大正生まれの食べ物を以下に紹介して大正時代の出来事についての話を終わりたいと思います。

・森永ミルクキャラメル、森永ミルクチョコレート(1918(大正7)年)

・明治ミルクチョコレート(1926(大正15)年)

・カルピス(1919(大正8)年)

・グリコキャラメル(1922(大正11)年)※当時からゴールインマークは変わらない。

・キューピーマヨネーズ(1925(大正14)年)

如何でしたでしょうか?

大正時代と言うのは様々な面において今の日本の文化の基礎となった時代と言えるでしょう。

↑大正時代館

ところで話は全くかわりますが明智町は戦国武将「明智光秀」の生誕地とされています(実際の誕生地は不明。諸説あり)。

そんな事もあり明智町には光秀にまつわる話が残されている場所がところどころに存在しています。↑明知城址(明智光秀生誕の城とも言われている)↑天神神社(明智光秀公学問所:光秀が若い頃、ここで学問をしたと伝えられている)↑明智光秀公御霊廟

本当に生誕地だったかどうかは分かりませんが明智町には戦国時代のロマンも残されていると言う事ですね。

光秀の生きた戦国時代から平和な江戸時代を最後に武士の時代が終わり明治時代で急激に近代化が進み大正時代を経て現代へ続く昭和へと向かいます。

大正時代は都市部では近代化が進み西洋の文化、生活様式に変わって行きましたが農村部は江戸時代の生活様式のままと言う古今が入り混じった状態だったと言います。

この事から大正は短い期間とはいえ武士の時代である近世と近代・現代をつなぐ重要な役割を持った時代と言えるでしょう。

物事は場合よっては費やした時間に関係なく重要な位置付けとなる事を大正時代は示唆しているのかもしれません。

日本大正村を訪問したら例え短時間だったとしても中身の濃い時間をお過ごし下さい。

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