墨俣一夜城の逸話は真実なのでしょうか?

このエントリーをはてなブックマークに追加

豊かな水の流れは時に戦いの流れを引き入れてしまうのでしょうか。

濃尾平野を経て伊勢湾に流れ出る長良川(ながらがわ)。↑長良川

その長良川や支流の犀川(さいかわ)を含む諸河川の合流点を意味する「洲の俣」を語源に持つ町が岐阜県大垣市の墨俣町(すのまたちょう)です。↑犀川

この土地は古来、交通上・戦略上において重要な拠点として、時おり合戦の舞台となりました

「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」には大海人皇子(おおあまのみこ:即位前の天武天皇の名)が壬申の乱(じんしんのらん:672年)において「すのまたのわたり」で、ある女に湯船にかくまわれ難を逃れたと記されているそうです。

あるいは、一般的に源平合戦の呼称が用いられる「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん:1180年〜1185年)」の一つに位置づけられる「墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい:1181年)もこの地で行われています。

そしてもう一つ、織田信長による美濃攻めの際に豊臣秀吉が一夜にして築いた「墨俣一夜城」の逸話が残されています。

この事から、墨俣町には1991年に大垣市墨俣歴史資料館として建てられた墨俣一夜城を見る事が出来ます

↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)

ただ、このお城(資料館)は立派な造りをしていますので一夜にして建てる事の出来るようなお城ではありません。そこのところは、模擬天守と言う事で寛容な心で受け入れ下さいね。↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)_展示室

さて、墨俣一夜城の逸話についてです。

戦国時代、美濃地方(現在の岐阜県南部)は斎藤氏の勢力圏でした。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った後の織田信長は美濃を攻略するにあたり斎藤氏の拠点だった稲葉山城(後の岐阜城)を落とすため重臣に交通の要衝である墨俣に出城を築くことを命じました。

初めに佐久間信盛(さくまのぶもり)が砦の建設に挑みましたが失敗。続いて柴田勝家(しばたかついえ)も失敗。次に名乗りをあげたのが木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)です。↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)_木下藤吉郎の像

藤吉郎は犬山方面で切り出した材木を木曽川に流して墨俣で拾い上げ、それを組み上げて一夜にして城を築きました。↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)_墨俣一夜城の展示パネル

信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされています。

現在、この逸話は豊臣秀吉の出世物語には欠かせないものとして広く知れ渡っています。

ところが、この逸話は信長の生涯を綴った「信長公記(しんちょうこうき)」などの良質の史料には、全く記載が無いと言う事です。

その一方で愛知県江南市(こうなんし)の旧家に伝わる前野家古文書より、墨俣一夜城に関する資料も見つかってもいます。↑墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)_前田家古文書(複製)

しかし、この資料の信憑性が定かでないことから現在も尚、墨俣一夜城の逸話の真意は謎に包まれた状態です。

真意はどうであれ物語として楽しませてくれていると言う面ではその価値は高いのではないでしょうか。

ところで、墨俣町には事実としての一夜城の話が別に存在しています。

墨俣町は2006年3月1日、当時日本一面積の小さい市町村であった高知県赤岡町(現:香南市)が合併で廃止となった為、墨俣町が日本一面積の小さい市町村となりました。しかし、同月27日に大垣市に編入したため一番だった期間は26日間で終わりました。

一夜城ならず、「一夜町(いちやちょう)」のお話でした 笑。

墨俣町には次にどんな一夜城が出現するか楽しみに待ちましょう。

さて、最後に一夜城に関連したことわざを紹介して今回の記事を締めたいと思います。

城は一夜にして成らず

敵が攻めてきても落ちない城は、簡単な造りでない。転じて立派な人や組織は豊富な経験の積み重ねから成るという意味です。

「ローマは1日にして成らず」の日本版ですね。

墨俣一夜城(歴史資料館)を見学するのも豊富な経験の一つになります。墨俣町方面に足を運ぶ際は是非お立ち寄り下さい!

このエントリーをはてなブックマークに追加