虎渓山永保寺の紹介からお寺と山との関係に触れてみました

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美しい庭園から滲み出る静逸な雰囲気に包み込まれた禅宗のお寺。

虎渓山(こけいざん)の山号を持つ臨済宗南禅寺派の永保寺(えいほうじ:岐阜県多治見市)です。永保寺は夢窓疎石(むそうそせき)が1313年に美濃国(岐阜県南部)を治めていた土岐氏の招きを受けこの地に禅寺を開いたのが始まりです。

しかし、疎石が同門の元翁本元(げんのうほんげん)に後事を託して上京し、南禅寺の住持職(寺の主僧)に就いた為、本元が永保寺の開山(寺院を開創した僧侶。すなわち初代住持職)へと改められました。

その後、室町中期以後に衰微するも、江戸時代の1746年には末寺28ヶ寺、孫末寺1ヶ寺を有する程になり、塔頭(たっちゅう:大寺の寺内寺院の事)が輪番で住持することで支えられ現在に至っています。

↑永保寺の塔頭の一つ徳林院(とくりんいん)↑永保寺の塔頭の一つ保寿院(ほじゅいん)↑保寿院の山門

ところで、永保寺の庭園が美しいのには理由があります。

どんな理由なのでしょうか?

疎石は臨済宗の禅僧であると共に京都市の天竜寺や山梨県甲州市の恵林寺(えりんじ)など各地の庭園を手がけた実績を持つ優れた作庭家でもあります。

つまり永保寺の庭園も、その疎石の代表作の一と言うわけです。

疎石によって作庭された庭園の美しさをより一層引き立てる落ち着きのある建物があります。

観音堂です。
↑観音堂

庭園に足を踏み入れる訪問者はおそらく最初に目を引かれる事でしょう。

禅宗様と和様の特徴を併せ持つこの観音堂は水月場(すいげつじょう)とも呼ばれ疎石が永保寺を開いた一年後の1314年に建てられたとされ、国宝に指定されています。

そして、永保寺にはもう一つ国宝の建築物があります。

開山堂です。↑開山堂

開山堂とは仏教寺院において開山の像を祀ったお堂です。よって永保寺の開山堂には夢窓疎石、元翁本元の坐像が祀られています。

この開山堂は、現存する禅宗寺院の開山堂の中では最も古いものとされています。

さて、ここまでの永保寺の紹介を振り返ると号、虎渓、開、開堂、門など「山」と言う文字が多く使われています。

お寺に関わる用語に「山」が多く使用されている理由は多くの寺院が山の中に建てられたことに起因しています。

山号は仏教の寺院の名称の前に冠する称号のことですが、その始まりは中国で禅宗が盛んになった唐の時代から用いられるようになったようです。

インドから中国へ仏教がもたらされると国内に数多くの寺院が建立されるようになった為、寺院の名称の前に地域を冠することで区別したと言う事です。その際に、人里離れた山の中に建てられるお寺も多かった為、山の名前を用いたと言われています。

日本でも禅宗が紹介されて以降に広がったようですが、日本は山が多く独自の山岳信仰が存在していた為、その事が山号の広がりを促したと言う日本固有の理由もあるのかもしれません。↑六角堂

最後に永保寺の山号を話題にして今回の記事を締めたいと思います。

永保寺の山号は虎渓山ですが、疎石がこの地を訪れた際、中国の蘆山にある虎渓と呼ばれる場所の風景に似ていたことに由来すると言われています。

その蘆山の虎渓を舞台にして生まれた四字熟語があります。

虎渓三笑  (こけいさんしょう)」です。

「ある物事に熱中するあまり、他のことをすべて忘れてしまうこと」を例えたものです。

『廬山に住む慧遠法師(えおんほうし)は虎渓よりも外に出ないと決めていました。詩人の陶淵明(とうえんめい)と道士の陸修静(りくしゅうせい)が訪れたある日、慧遠法師が二人を送る途中、話に夢中になって虎渓を過ぎてしまい三人で大笑いした』

この故事から虎渓三笑と言う四字熟語が生まれました。

虎渓山永保寺の美しい庭園と落ち着いた趣のある建物はほんのひと時ではありますが時が経つのを忘れてしまうほど訪れた人を夢中にさせてしまうでしょう。何か夢中になれるものを見つける事により人生をより豊かにする事が出来る事を訴えているように思います。

虎渓山永保寺を参拝して夢中になるものを得ましょう!

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