白く高い石垣と黒い塀のコントラストは強固な城壁の雰囲気を醸し出している。一見すると城郭と見紛うこの寺は養老山地の中腹に置かれる行基寺(ぎょうきじ:岐阜県海津市)である。
美濃高須藩の初代藩主となった松平義行(まつだいらよしゆき)は行基寺を松平家の菩提寺とし、元々あった伽藍を城郭に見立てて改築した。
緊急時には高須藩の城としての機能を有していたと言うから城郭と見紛うのは無理もない。
その名残として藩主の間は現在も存在している。↑藩主の間
あるいは松平家が使用した約2mの櫓時計は今も尚、時を刻んでいる。↑2mの櫓時計(右側)
松平家は美濃高須藩の藩主として幕末までこの地域を治めたが、尾張徳川家に後継者が絶えた場合に松平家から相続人を出すと言う役割も担っていた。故に徳川家との繋がりは強い。
山門や本堂には葵の御紋が飾られその威厳を漂わせている。境内全体が凛と佇んでいると感じるのはそのせいかもしれない。
↑山門
↑本堂
さて、松平義行が行基寺を菩提寺としたのは1702年、つまり江戸時代のことだが、行基寺の創建は奈良時代にまで遡る。
伝承によれば当時、諸国を巡っていた行基が洪水による被害を受けたこの地の惨状を目の当たりにし、聖武天皇の勅願を得て人々のために行基寺を建立したという事だ。
行基は民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたるなど社会事業につとめた和泉国(大阪府)出身の僧である。一般的には喜光寺(きこうじ:奈良市)で81歳で入滅し、竹林寺(ちくりんじ:生駒市)に埋葬されたとされている。
しかし、不思議な事に行基寺の伝承ではこの地で入滅・埋葬された事になっている。
故に、行基寺には行基塚があり、入滅されたと伝えられる場所には板碑、七重の石塔が今も残っていると言う(板碑、七重の石塔は共に非公開)。
真意は不明だが、いずれにしても行基寺と言うくらいだから行基との縁は深いことに間違いはないだろう。
このような古い歴史を持つ行基寺には美しい回廊式庭園がある。
少し観覧してみよう。
落ち着いた庭園は忙しい日常の疲れを癒してくれる。
そして、その日常をも忘れさせてくれるこの庭園の最大の見所は濃尾平野を借景(しゃっけい)とした壮大な景観である。いつまででもここで景色を眺めていたい気分になる。
借景とは庭園外の山や森林、あるいは湖沼などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込む造園技法の一つである。
しかし行基寺の借景は山でも森林でも湖沼でもなく壮大な平野を借景としている。
自分が知らないだけだと思うが平野を借景とする庭園を他には知らない。
なぜ、平野なのか?
もちろん、山の中腹にあるから必然的にそうなるのは分かるが、少し想像を膨らませると違った答えも見えて来る。
行基図(ぎょうきず)と呼ばれるものがある。
行基図とは最古の日本地図とされ行基が作ったとされる説がある。ただ、当時作成された行基図は現存しておらず、本当に行基が作製したのかその真偽は不明だ。
江戸時代中期に長久保赤水(ながくぼせきすい)や伊能忠敬(いのうたがたか)が作製した日本地図が現れる前まで日本で使用されていた日本地図は行基図を元にしていたとされる。
地図は全体を俯瞰的に見ることが出来るが、行基は平野を借景にする事で全体を見渡す技法を得て地図の精度を上げたかったのかもしれない。
そして、そんな行基の思いがこの地に寺を建立させたのだろうか。常識離れした想像だとは思う。しかし想像をする事は自由である。とんでもない想像であってもそこから新たなものが生まれる可能性はゼロではない。
広大な濃尾平野を借景に持つ行基寺の庭園に訪れて現実離れした想像をする事で気分転換を図ってみてはいかがだろう?
何か気づきを得られたら幸いである。