天竹神社を通して綿の歴史を学びましょう

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「柔らかい」「優しい」「ふわふわ」

私たちの生活の中に溶け込んでいる綿(ワタ)

綿に対するイメージを問えばこんな回答が返って来るのではないでしょうか。

綿とは植物分類学上ではアオイ科ワタ属の総称。その綿の種子から取れる繊維を木綿(もめん)と呼びます。↑綿(出典:Unsplash)

私たちが通常、綿に対して抱くイメージとしてはどちらかと言えば繊維としての綿だと思います。従って綿とは木綿の事を指す事になります。

綿は日本にいつ頃伝わって来たのでしょうか?

愛知県西尾市に天竹神社(てんじくじんじゃ)と言う神社があります。↑天竹神社

この神社は日本で唯一、綿の神様・綿祖神(めんそしん)、別名新波陀神(にいはたがみ)を祭る神社です。

真意は分かりませんが、波多(はた)は絹製品の事を指し、新波多(あらはた)は絹に次いで伝わったという意味を持ち、それが転じて新波陀になったようです。

では、なぜ綿の神様が祀られているのでしょうか?

それは、天竹神社のある三河地方(愛知県東部)が日本で最初に綿が伝わった場所とされているからです。

↑天竹神社境内にある綿資料館

平安時代初期に編纂された「日本後紀(にほんこうき)」にその事が記されているそうです。

『延暦十八年(西暦799年)の秋、「参河國(三河国)」に1艘の小船が漂着し、その船には袈裟に似た布をまとった一人の青年が乗っていた。言葉が通じず、どこの国の人か分からなかった。唐人によると、その人は「崑崙人(こんろんじん)」とのことだった。後にこの青年は言葉を習い、自分は「天竺人(てんじくじん)」であると自称した。青年は草の実に似た物を持っており、それは綿の種だと言った。「天竺人」は川原寺に住むことになり、後に近江国の国分寺に移り住んだ』

さて、天竹神社の創建についてです。

前述の日本後紀に出て来る川原寺(愛知県岡崎市の北野廃寺とする説もある)には天竺人が描かれた絵があり、それが現在天竹神社の隣にある「地蔵堂」に移されたようです。この絵が新波陀神となり、1837年に地蔵堂内に天竹社を創建したのが始まりとされているそうです。

↑地蔵堂↑綿資料館に展示されている綿祖神の絵

更に明治時代に入り神仏分離令によって1883年(明治16年)に地蔵堂から分離し天竹神社と改称され現在に至っています。

天竺とはかつて中国や日本が用いたインドの旧名です。

1775年に書かれた「三河刪補松」には「天竺人」が漂着した場所は「天竺村」もしくは「天竹」と特定されているそうです。

また、1836年の「参河志」においても、やはり「天竺人」が漂着した場所は「天竹」もしくは「天竺」としているとの事です。

そして、天竹神社(てんじくじんじゃ)のある場所は現在も天竹町としてその名が残されています。

このような事からも、日本で最初に綿が伝わった場所は天竹神社のあるこの辺りと推測されているわけです。

如何でしたでしょうか?大変興味深い話ですね。↑天竹神社

ところで、天竺人は綿の種のまき方や栽培方法を教え、綿を日本各地に広めたようですが綿の国産化は定着しなかったようです。

冒頭で「綿とは木綿の事を指す事になります」説明しましたが、文献上に木綿の文字が出現するのは、最も古いもので1204年の高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)関係の記録に記載されているそうです。

一方、国産化に関しては、1494年に越後の上杉房定(うえすぎふささだ)が毛利重広(もうりしげひろ)に宛てた安堵状にその記録が見られる事から、国産化が始まった時期は15世紀末から16世紀中頃と推測されています。

ここで、最初に日本に綿が伝わってから実に700年近くも国産化されていなかったものが、どうしてこの頃国産化が進んだのか?と言う疑問が出て来ます。

なぜなのでしょう?

16世紀と言えば戦国時代の真っ只中です。実はこれが綿の国産化が急速に進んだ理由につながります。↑天竹神社

綿は暖かく、吸水性、通気性に優れ熱に強く柔らかいと言う特徴を備えています。

これを戦闘服として使用したらどうなるでしょう?

そうです、最高の素材だったのです。

綿は明や朝鮮からの輸入に頼っており、大変高価なものでした、それを安くする為にも国産化が必要だったのです。

この国産化により綿の生産量が拡大しました。

その生産地の一つが三河地方です。

特に江戸時代に入ると益々栽培と綿織物が盛んとなり、この地方の織物は「三白木綿」として江戸方面に送られたとの事。

明治時代には「三河木綿」というブランド名で全国に知れ渡り、「質の良い綿織物」として今日まで受け継がれています。↑天竹神社境内にある御神綿苑

綿が三河の地に日本で最初に伝わったからと言って、国産化されるまで700年近くの空白の期間があったわけですから三河地方が綿織物の産地にならなかったとしても何ら不思議ではありません。

にも関わらず、三河地方が綿織物の一大産地となったのは日本で唯一の綿の神様・新波陀神が導いたのではないでしょうか?↑天竹神社

天竹神社は観光地でも何でもなく特に有名でもありません。知らなければ普通にみかける神社として見過ごしてしまうでしょう。

興味深く追求する事で特徴のないものでも色々な事が見えて来ます。それは人にも同じ事が言えるのではないでしょうか。

天竹神社はそのような事を教えてくれる神社とも言えます。

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