石鳥居を起点に長く一直線に伸びる参道。
視界を遮るものは無く潔さを感じさせてくれます。
遠く微かに見えるのは愛知県稲沢市の尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)です。↑尾張大国霊神社_参道
参道の突き当たりで迎えてくれるのは落ち着いた雰囲気が漂う楼門。↑尾張大国霊神社_楼門
室町時代初期に建造され、重要文化財に指定されているこの楼門をくぐると一直線に突き抜けようとする参道の勢いを遮るかのように蕃塀(ばんぺい)と呼ばれる塀が設けられています。↑尾張大国霊神社_蕃塀
この塀は愛知県北西部を中心に見る事の出来るこの地方独特のもので、一説には不浄なものの侵入を防ぐために設けられたとされています。
蕃塀により楼門からは社殿が見えないようになっていますが、尾張大国霊神社では蕃塀の存在とは真逆で、見える事が前提の神事が毎年行われています。
尾張一円から集まった数千人の男達がサラシの褌に白タビと言う裸姿となり、参道・境内を埋め尽くす天下の奇祭「国府宮はだか祭(こうのみやはだかまつり)」です。↑国府宮はだか祭(出典:ウィキペディア)
尾張大国霊神社は一般には国府宮神社(こうのみやじんじゃ)、国府宮(こうのみや)と呼ばれている為、はだか祭は国府宮の名を冠しています。↑尾張大国霊神社_拝殿
国府(こくふ、こう)とは、日本の奈良時代から平安時代に、国司(国の行政官として中央から派遣された官吏)が政務を執る国庁が置かれた都市の事を指します。
尾張大国霊神社の近くにはかつて尾張国の国府があったことから、国府宮神社と呼ばれるようになりました。
さて、国府宮はだか祭です。
国府宮はだか祭りの正式名称は「儺追神事(なおいしんじ)」と言い、日本三大奇祭の一つに数えられ、毎年旧暦正月13日(現代の暦法で2月中頃)に開催されます。
儺追笹(なおいざさ)とは儺追布(なおいぎれ)と呼ばれるお守りが結び付けられた笹の事。裸男たちは儺追笹を担ぎ、次々に拝殿へ持ち込み奉納します。最後の儺追笹が奉納される頃に神社とその周辺は数千人の裸男たちで埋め尽くされます。
そこへ何も着ていない素っ裸の儺負人(なおいにん)と呼ばれる神男(しんおとこ)が参道の一角(どこから出てくるのか分かりません)から登場します。
すると裸男達は儺負人に触れて厄を落とそうと押し合い、へし合い凄まじい揉み合いになります。
一切の厄難を一身に受けて揉みくちゃにされた儺負人は儺追殿へ引きずり込まれます。↑尾張大国霊神社_儺追殿
以上がこの祭りのクライマックスです。
本当に天下の奇祭ですね(^^)
なぜこのような神事が生まれたのでしょうか?
その起源は奈良時代まで遡ります。
767年、称徳天皇(しょうとくてんのう)の勅命によって全国の国分寺で悪疫退散の祈祷が行われた際に尾張国司が尾張大國霊神社においても祈祷をしたことが始まりと伝えられています。
やがて、歩いている村人や飛脚を捕まえて儺追人に仕立てた「儺負捕り」ということが行われるようになり、そこへ裸の寒参り風習が結びつき江戸時代末期に現在のようなはだか祭の形態になったようです。儺負捕りの名残が裸男の揉み合いとなって表現されていると言えます。
さて、全く話は変わりますが種子植物のうち胚珠(はいしゅ:種子植物の種子になる部分)がむきだしになっているものを裸子植物 (らししょくぶつ)と呼びます。
国府宮はだか祭は人間が裸になって行われる神事ですが植物の種子にも裸の状態のものがあると言う事ですね。
裸子植物の一つにイチョウがあります。イチョウの種子と言えばギンナンですね。
実は国府宮はだか祭の行われる稲沢市は日本一のギンナンの産地でもあります。
特に市内の祖父江町(そぶえちょう)には1万本を超えるイチョウの樹があり生産量の大半を占めています。↑祖父江町のイチョウ
ギンナンはかつて米の凶作時の備蓄食糧に使われたそうですが、生産目的の栽培を開始したのは祖父江町が最も古いとされています。
祖父江町では古くから防風、防火樹として屋敷内にイチョウが植えられていたと言う事です。約150年前に大粒の実が成る品種を発見し、接ぎ木により祖父江町内に広まったのが生産目的の栽培の起源とされています。↑祖父江町のギンナン
尾張地方に春を呼ぶ祭りとして定着した国府宮はだか祭り。
晩秋になると町を黄金色に染めるイチョウ。
稲沢市には季節の変わり目の風物詩が揃っていると言えますね。
裸つながりで強引に締めてしまいましたが、裸には「生まれたままの姿」「つつみ隠すところがないこと」「ありのままであること」「率直であること」などの意味があります。
難しいとは思いますが常につつみ隠す事なく率直である事を心がけたいですね
稲沢市へはありのままの姿で訪れて下さい(^^)