調整能力に覆われる板倉勝重の菩提寺「長圓寺」

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地方には歴史上重要な場所が点在している。

ここもその一つと言えるだろう。

苔むした石段の先にある山門。

山門をくぐり、その先にある階段を昇ると立派なお堂が目に入る。

愛知県西尾市にある長圓寺(ちょうえんじ)である。

↑長圓寺

ここに訪れる事がなければ、この人物を取り上げる機会はなかったかもしれない。

板倉勝重(いたくらかつしげ)である。

長圓寺は京都所司代(きょうとしょしだい)として活躍した勝重とその一族である大名・旗本板倉氏の菩提寺である。↑長圓寺

徳川家康が江戸幕府を開くとその支配体制を確固なものとする為に京都に置かれたのが京都所司代である。

京都の統治、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視,五畿内及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政を総括する事を目的とした。

初代京都所司代として徳川家康の娘婿である奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が任命されていたが1601年に信昌に代わる者として抜擢されたのが勝重である。

勝重は名所司代と讃えられると共に庶民からは名奉行としても親しまれた。

江戸時代の名奉行といえば、「大岡越前」で有名な大岡忠相(おおおかただすけ)、あるいは「遠山の金さん」で有名な遠山景元(とおやまかげもと)だが、この2人に勝るとも劣らない名裁きを行ったのが勝重である。

真意は定かではないが大岡越前に関して言えばその手本になったとさえ言われているくらいだ。

数々のエピソードが残されている勝重だが、彼の口癖は「奉行職で第一に肝要なのは、町人の賄賂を受けとらぬことだ」と言うものだったそうだ。

その口癖を表現したとも言える裁きを一つ紹介しておこう。

『京都のある角屋敷で、境界争いが起こった。その争いの一方は勝重の日ごろから知っていた者らしく、見事な浅瓜(白瓜)を贈ってよこした。

勝重はその返事に「近日中に境界の様子を見に行こう」といって、やがて日を見て争いの現場におもむいてこれを見分した。

町中のものが固唾を飲んで勝重の判決を待っていた。

すると勝重はその男に向かって「先日は珍しい瓜をもらってかたじけなかった」と礼をいい、「さて、よく見分したところ、この土地は隣家のものなので、あの瓜はあとで返上する」と言い渡して帰った。

人々は「まことに明快な裁きだ」と皆感嘆しあった』

瓜を賄賂として受け取っていたならばこのような裁きは出来なかっただろう。

公平な裁きは清廉潔白な態度で望まなければならない。これは現代の政治やビジネスの取引でも言える事である。

長圓寺は、もともと現在の愛知県岡崎市中島町にあった永安寺が前身である。勝重が1603年にこれを再建して中島山長圓寺と改めた。その後の1630年、勝重の長男である重宗(しげむね)が父の7回忌の際に現在の地に移した。

↑長圓寺

実はこの重宗は勝重の後を継いで3代目の京都所司代となっている。

彼もまた名所司代だった。

重宗は30年以上在職した。

彼にも多くのエピソードが残されているが今回は割愛させて頂く。ただ、これだけ長きに渡り同じ職に留まった事自体が異例であり、それだけ高く評価されていた証拠である事は伝えておきたい。

京都所司代に親子2代で就いたのは板倉勝重・重宗だけであるが、その理由はもうお分かりであろう。

更に付け加えるなら勝重の孫であり重宗の甥にあたる重矩(しげのり)もまた5代目の京都所司代に就いている。

在職はわずか2年だったが重矩は関係性が悪化していた幕府と朝廷の間を取り持ち関係を改善したと言われている。

勝重は後に備中松山藩5万石の藩主となり以降板倉氏が明治まで藩主として後を継いだ。

第7代藩主の勝静(かつきよ)は井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された翌々年の1862年、及び徳川慶喜の代に老中首座(筆頭)となっている。

こうして見ると板倉氏は勝重を発端に「調整能力」と言う能力を受けついで行ったのであろう。

長圓寺の境内には勝重の霊廟である肖影堂や、板倉氏代々の墓がある。そして今も尚「調整能力」によって覆われているのかもしれない。↑長圓寺_肖影堂↑長圓寺_板倉氏代々の墓

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